*つづき
前記事のつづきです。「批判について」のコメント欄からのコピペはこれで終了です。
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> 易坊さん
「ゲシュタルト
全体性を持ったまとまりある構造」
なにもわからずに、ふと夢想したのですが、
病院は人間の命にかかわる身体と心の診療をしていますが、どのくらいの数の診療科目があるのでしょうか。
各診療科目は人の身体とこころの診療科目全体と密接不可分な科目だと思うのですが、まだ人間を「全体性を持ったまとまりある構造」として扱える診療科はないように思います。また人には人格という要素もあるのですが、それらすべてを統合し「全体をまとまりのある構造」として、いずれゲシュタルト科と言うような診療科をつくることができるのでしょうか?また人間とはなにか?どのような存在か?について説明できることば、あるいは学問分野はあるのでしょうか?
2018/10/10(水) 午後 7:31[ shalom ]
存在論という分野で抽象のレベルといいます。
レベル オブ アブストラクション
自転車をこぐとき、
力を入れる
足を曲げる
力を入れる
足を伸ばす
といちいち考えないと思います。
それがゲシュタルトです。
抽象のレベルを一段階上げて一つの動きとして捉えているわけです。
ゲシュタルトをあえて分解したり、また戻したり、そうやって物事を正しく見るんです。
脳と心は抽象のレベルが違うだけで同じものです。
心を心として捉えるのが心療内科です。
2018/10/10(水) 午後 8:46[ 易坊 ]
stさんは情報の統合、ゲシュタルトの構築がうまくできない病気と思われます。
情報の抽象レベルを整理出来ずアンビバレントに扱うから統合に失敗しているんです。
2018/10/10(水) 午後 9:07[ 易坊 ]
シャロムの文章は、いつ見ても腹が立ちます。心を持たない者が、ゲシュタルトを語って、しかも、唐突に思い付きで医療を語っています。シャロームの組み立て不能の理路は、殆ど触覚のように、話がでたらめになっています。何も受けず、何につなげるわけでもなく、文脈の後先なく、ゲシュタルト≒全体像という言葉だけの思い付きで、知的な話をしたつもりになっている。何が言いたいのかというと、何も切実に言いたいことなど無いのです。明日には忘れてしまうような、いい加減な連想と発想です。ずっと、そういう人・・
2018/10/10(水) 午後 9:31st5402jp
そういうシャロムの特徴は、重要なテーマと語る上でも、いつも、興ざめな、場違いな、素っ頓狂な、傍迷惑な、話の持っていき方になります。そうやって、無駄な時間と空間を増やして、大事なことをおざなりにしてきたのでしょう。誰も理解しないが、誰も文句を言わないような、無駄話の仕方が、シャロームの処世となって、話が信仰という命の問題になっても、空疎な讃美だけで、宗教と信仰を渡ってゆけるという安易さになっている。本質を求める者にとっては、いてほしくない不真面目で怠慢で見るだけで億劫な空しさを提供する存在になっているのです。
2018/10/10(水) 午後 9:39st5402jp
易坊は、元々、シャロームと同様に、心を持ちません。いつも、言葉をいじっては、その脈絡だけで話を勧めますが、同類か、社交だけの者以外には、疎外されてゆきます。話がどこまでも抽象的な断片をめぐるものだから、結局、見る側は、うんざりしてしまい、話をやめようとしますが、そこで、易坊は、烈火のごとく怒り狂って、同じ問い詰めや言い張りを繰り返したり、程度の低い、自分は完全だ、というような自慢話を始めたりするので、そういう人なんだと、愛想を尽かされて、相手にされなくなるのです。その不満足を慰められるところ、今はここで、また、人を罵って、得られるはずのない充足に浸ろうと、バタついているのでしょう。
2018/10/10(水) 午後 9:47st5402jp
> 易坊さん
ふとワイルダー・ペンフィールドというカナダの脳科学者のことを思い出しました。
確か臨死体験について書いてありました。検索しましら、次のような記事がありました。
脳科学者というのは、基本的に、「すべては脳内現象である」と考える傾向がある。
物質である脳の中での化学物質の分泌や電気信号のやり取りが、人間の「意識」を生み出すと考える。
そうした中で、最近、テレビにも出ている脳科学者・茂木健一郎氏が面白いことを言っていた。
「現代の脳科学者は、物質である脳からいかに心が生まれるのか、その第一原理を理解していない」
脳科学者(=唯脳論者)たちでさえ、
なぜ物質である脳から「心」が生まれるのか、まったく分かっていないのだ。
・・・
カナダの脳外科医 ワイルダー・ペンフィールドは、
脳の側頭葉に電気刺激を与えることで、臨死体験を起こすことができると主張している。
これなども、臨死体験は「脳内現象」に過ぎないという意見の一つだろう。
2018/10/10(水) 午後 9:58[ shalom ]
だが、このブログの過去の記事、
「臨死体験について」
「再び、臨死体験について」
で書いたような臨死体験事例を、単なる脳内現象と言って済ますことができるんだろうか。
これらの事例では、臨死体験者は明らかに、
本来は見えないはずの周囲の状況を見ている。
だが、ペンフィールド博士が行った実験を無視することもできない。
側頭葉に電気刺激を与えれば、臨死体験が起こることも事実なのだろう。
・・・
ペンフィールド博士の実験。
一方で、単なる脳内現象と言い切ってしまうのは困難な臨死体験事例の存在。
これをどう解釈したらいいのだろうか。
2018/10/10(水) 午後 10:01[ shalom ]
この後は、かなりアバウトな内容になってしまう。
お許し願いたい。
もし、魂の座が側頭葉にあると考えれば・・・
人間の身体の中には魂が宿っている、その宿っている場所が側頭葉なのだと考えれば・・・
一応の辻褄は合う。
・・・
いずれにしても、
脳科学者 茂木健一郎氏の言うとおり、
「現代の脳科学者は、物質である脳からいかに心が生まれるのか、その第一原理を理解していない」
「心」を生み出すものは何なんだろうか。
それこそが魂なんじゃないだろうか。
そして、「脳内現象説」では説明不可能な臨死体験事例を見る限り
やはり、人間は死んだ後も、魂は生き残るのではないか、と感じざるを得ない。
そんな風に考えてしまった・・・
《shalomコメント》
脳と心についての興味ある記事だと思い引用しました。
2018/10/10(水) 午後 10:02[ shalom ]
私はその答えを持っているけど、今の方法論では立証できないので心に置いています。
2018/10/10(水) 午後 10:03[ 易坊 ]
シャロームは、後先を考えた思考が出来ません。易坊は、幼児的な欲求不満を処理できません。
どちらも、心がないために、理路に、重みや、説得力を持たせることが出来ません。自己満足しかない必然の悲劇を内在していると思われます。にもかかわらず、自覚がないまま、出てきては、煩わしい言葉の薄片を、質量を当たえられず、余計なものをくっつけたり、折り曲げたり、ちぎったりしながら、量だけはぶつけてくるので、正常な感性と理性を持っている人には、耐えられない不快な塵埃をかけられることになるのです。
2018/10/10(水) 午後 10:07st5402jp
茂木のクオリアはアートマンです。
私はあくまで縁起を取ります。
2018/10/10(水) 午後 10:12[ 易坊 ]
そういう特徴は、言い換えると、共感性の欠損とも言えるでしょう。共感するセンスの欠乏とも言えますし、共感する気がないとも言えるのですが、他者の話の流れからは、的外れにしかならず、応答は必然的に少なくなります。そして、彼らの話が、自己中心ではないか、と気づかれることになります。
そこからの惨状は、彼らの今までのあり方によるもので、自己中心に発散し短絡して行方知らずの理路は的外れになり、かつ、誰が何を指摘しても、訂正不能で功を為さないことから、周囲に鬱陶しさを持たれて、人々は遠ざかります。そこから生まれる不全感や怒りや憎しみを、彼らは正常に処理できません。事態が理解できないからです。
2018/10/10(水) 午後 11:28st5402jp
シャロームは交流したと自己満足して動じないコンクリートのような偽善者となり、何も刺激がない不感不応の状態を神の平安と呼んで凌ぎます。そして自分は正当な福音伝道者だと思い込み続けます。それで解決するはずはないのです。
易坊は怒りや憎しみによって火山のように噴石を飛ばし荒らしとなり、いつも、人を自分より下に見るナルシストになって凌ぎます。そして自分は正当な理論家だと思い込み続けます。もちろん、それで解決するはずはないのです。
彼らは、経過と結果において、理路も情感も必要とされないような、ただ、相槌や社交の世辞としての賛同を与えてくれる環境だけを愛するでしょう。しかし、そのようなところでは、真実追求の議論としては、何も交わってはいないし何も生まれてもいないのです。
2018/10/10(水) 午後 11:28st5402jp
stさんさ詩人の才能があります。
論理はダメです。
2018/10/10(水) 午後 11:40[ 易坊 ]
内部表現は意識の一部にすぎません。
熟睡中も無意識は外界の情報をちゃんと感じ取っています。
2018/10/10(水) 午後 11:45[ 易坊 ]
記事で、あえて、二人のHNを出しているのは、匿名のAとかBとかで書いた場合、彼らは、全く不感不応で気にしないでいられるからです。そういう感情鈍麻であるかもしれませんが、上記のような成り行きで、彼らが、身につけた不感不応とも言えるでしょう。
彼らには、というより、議論や交流というものを大事にする立場を持つ人々が彼らから守られるためには、彼らに対して、持続的な戒めの質量を公共の場に上げ続けることが必要だからです。そして、何よりも、読者が、彼らに好意的に近づかないことが大事だからです。
以上は、コメント欄に、ポンポン書いたことのコピペだけだと、私のほうも断片的になりやすいことから、最初から記事を意識して、これまでのネットにおける事実に基づいた推測です。
2018/10/11(木) 午前 0:01st5402jp
神の国はあなたのものです。
2018/10/11(木) 午前 0:04[ 易坊 ]
> 易坊さん おはようございます 超早起きしてしまいました。
立証できない答えですか?!
まさか易坊さんの信仰ではないでしょうね!?
「茂木のクオリアはアートマンです。
私はあくまで縁起を取ります。」
もうすこしわかりやすく説明できませんか?
クオリアとかアートマンとか縁起とか・・・
一つ一つの言葉の説明とつながりなど。
これからまた寝ます。おやすみなさ~い
2018/10/11(木) 午前 3:20[ shalom ]
引用
(3)「意識とは何か」とは何を問うのだろう
さてそうなると、クオリアや意識とは幽霊みたいですらある。しかし、幽霊が肉体とは別個の存在と信じられているのに対し、意識はあくまで脳を離れては存在しない。脳の働きなしには生成しない。そこは科学の立場が今のところ譲れない点だろう。つまり脳と意識は二元論ではない。ただそれでも、意識がもし脳と違って科学の対象になるような物理的実体ではないということ自体、これはもう単純な一元論とも言い切れないのか…。
茂木は二元論です。
肉体と関係なく魂がある、というスピリチュアリズムです。そういう魂をバラモン教ではアートマンといいます。
心と体は一つで、体を離れて心は存在しない、というのが釈迦の縁起です。
心と体は抽象レベルが違うだけです。
2018/10/11(木) 午前 4:15[ 易坊 ]
>立証できない答えですか?!
まさか易坊さんの信仰ではないでしょうね!?
形而上の領域だから現状では語り得ない、ということです。仮説として考えています。
2018/10/11(木) 午前 4:23[ 易坊 ]
茂木はクオリアについて出版したとき情報の抽象レベルを知らなかったんです。ウィトゲンシュタインの私的言語についても知りませんでした。
だから、ヘンテコなスピリチュアリズムに陥っていました。今はどうか知りませんが。
インテリでも間違えるんです。
なので私はインテリぶりたいとは思っていません。
2018/10/11(木) 午前 5:20[ 易坊 ]
>この辺りは、バランスを取るのは難しく、本当にややこしい。ここは万人が賛成できる結論はなかなか出そうにない…とほほ。
抽象レベルを混同しているからです。
私はやや踏み込んで説明しています。
こうさんやマリアさんにはたぶん理解できないだろうけど、自由さんは解ると思います。シャロームさんも解ると思います。
2018/10/11(木) 午前 5:50[ 易坊 ]
子供に説明するときと大人に説明するときでは説明のしかたが違うんです。
違うとしても、それは矛盾ではないんです。
レベルが異なるだけです。
2018/10/11(木) 午前 5:52[ 易坊 ]
未知の知識を吸収するのはストレスが伴います。
既知の知識を反芻したり、他者と共感したりするのは心地好いんです。
トラウマにならない程度のストレスが学習につながるんです。
適度なストレスは、イタ気持ちよく感じます。
もちろん適度は人によって違います。
一対一と一対多数では説明のしかたが変わるということです。
痛いと感じたり、心地好いと感じたり、くすぐったかっり、かゆかったり。
ブログは一対一ではありません。
2018/10/11(木) 午前 6:19[ 易坊 ]
自由
こんばんは。
この件については、こうさん、マリアさんも同じ考えではないかと想像します。あちらの記事、コメント欄を見てると、すごく難渋してたようなので。
2018/10/10(水) 午後 7:32
st5402jp
この件って、どの件が分かりませんが、自称マグダラさんは、カルトですから、全然違うと思います。自称ヨシュアと同じで、教えを守ることを教えて、けらっと笑って批判者を罵ります。教えを守れないことを知るのがキリスト信仰です。私は、批判では、真剣なので、極力、笑わないようにしています。カルト、荒らし、偽善、今のキリスト教は、ひどいものです。
2018/10/11(木) 午前 1:38
2018/10/11(木) 午前 6:29[ 易坊 ]
噛み合わないんです。
stさんは統合を失調しているんです。
挨拶とか日常会話はできるけど、議論はできません。
2018/10/11(木) 午前 6:32[ 易坊 ]
>stさんは統合を失調しているんです。
ヨシュアと同じ、シャロームと同じ、病気と決めつけてきた。
>議論はできません。
あなたのことです。恐らく誰とも。
2018/10/11(木) 午前 7:14st5402jp
独り舞台の易坊
2018/10/11(木) 午前 7:15st5402jp
> 易坊さん
>立証できない答えですか?!
まさか易坊さんの信仰ではないでしょうね!?
『形而上の領域だから現状では語り得ない、ということです。仮説として考えています。」
「茂木は二元論です。
肉体と関係なく魂がある、というスピリチュアリズムです。そういう魂をバラモン教ではアートマンといいます。
心と体は一つで、体を離れて心は存在しない、というのが釈迦の縁起です。
心と体は抽象レベルが違うだけです。」
2018/10/11(木) 午前 9:57[ shalom ]
形而上の領域だから現状では語り得ないと考えますが、それはあくまで限界ある人間から見ればという人間学の立場から見解のようですね。
ヨハネ1:1、2・・・14
初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。・・・そして言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った。私たちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた。
言葉であり、神である言葉が肉体。イエス・キリストとなったというのがキリスト教信仰の不動の基礎であり、仮説でもなく、二元論、肉体と関係なく魂がある、というスピリチュアリズムでもなく、バラモン教でいうアートマンでもなく、心と体は一つで、体を離れて心は存在しない、というのが釈迦の縁起でもなく、生ける神による受肉による語り掛けです。
2018/10/11(木) 午前 9:57[ shalom ]
> 易坊さん
「生ける神による受肉による語り掛け」
生ける神の名は「その名は不思議」というほかはありません。
神の人の思い、思考を超え、議を超えた方のようです。
2018/10/11(木) 午前 10:05[ shalom ]
> shalomさん
神は神の義である。なんだ、義を超えた方というのは?・・あなたの言う何でも赦してくれるバーゲンの神か。呆れる。また、分かりもしない造語で、讃美する大仰者。
あなたは、義を持たず、思考を持たず、信仰を持たない。
その神を、シャロームは、どれだけ誉めまくりながら、裏切ってきたか。
相変わらず、恥を知らない人、何か言うたびに、偽者ぶりが表れる。
2018/10/11(木) 午前 10:15st5402jp
> st5402jpさん
「なんだ、義を超えた方というのは?」ではありません。
「議」です。人の議を超えた方です。
漢字は表意文字ですから、自分の気持ちに流されないように注意しながら、よく文字をよく見て読みましょう。
2018/10/11(木) 午前 10:27[ shalom ]
易坊だ
教条主義のことですか、と気軽に書いて、おしまい。
シャロームと易坊は、楽だね。何も感じないように、人格をすっかり変性・変容させている。まともな神経じゃ、なかなか耐えられない。
2018/10/11(木) 午前 11:16st5402jp
一生、そうやって過ごすんだろうな・・と、ふと思う。
2018/10/11(木) 午前 11:17st5402jp
> 易坊さん
「神の人の思い、思考を超え、議を超えた方のようです。」
2018/10/11(木) 午前 10:05
神の人の思い?神は人の思い…の誤りです。
2018/10/11(木) 午後 0:01[ shalom ]
> shalomさん
私はキリスト教も仏教も興味ないです。
2018/10/11(木) 午後 1:23[ 易坊 ]
> shalomさん
言うことが、どんどん気色悪くなってゆくね
2018/10/11(木) 午後 4:10st5402jp
おはようございます。
雑談スレッドみたいになってしまってたけど、どうやら一段落ついたみたいですね。
では、shalomさんとstさんの対話は、とりあえずいったん終了ということで、そろそろ通常状態(承認制)に戻そうと思います。
2018/10/12(金) 午前 5:59[ 楽山 (自由) ]
> 自由さん おはようございます
きょうは気持ちの良い秋晴れですが、だいぶん冷え込みました。
ありがとうございました!shalom!・・・神からの平安がありますようにという意味で、イスラエルでは一日中、いつもこの挨拶の言葉を交わしています。
2018/10/12(金) 午前 8:00[ shalom ]