*つづき
前記事のつづきです。
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> 自由さん
悪と罪という言葉だけ避けている人もいますから。悪と罪ということは、キリスト者にとって、身近なはずです。
2018/12/10(月) 午後 9:07st5402jp
> 自由さん
>
イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?
<
二千年前の十字架によって、今生きている信仰者の罪がない、というのは、魔法の世界の話でしょう。現実に、罪と悪の事実が報じられる世界では、二千年前の十字架の贖いより、今、折に触れて、赦しを乞う祈りのほうが大切です。
シャロームは、十字架、罪の贖い、贖われたから、罪はない、という、幼稚な三段論法的な考えで、赦しと救いの成就を既遂としてしまったのです。教条主義だとそうなりやすい。それで、今は罪を気にしなくていい、という、独断になってしまっています。
2018/12/10(月) 午後 10:57st5402jp
>stさん
自分としては、shalomさんは、「信仰のみ」という考え方なのかなと思って質問してみた次第です。
救われるには、イエスを信じることのみで十分であって、その他のことはあまり考えなくていいとか…?
ちなみに、これと似た考えは浄土真宗にもあるみたいです。検索で一番にでてきたページの説明では次のように述べられてます。。
>ですから本願を信じたうえは、救われるために他のどのような善行も必要としません。
如来よりたまわった本願の念仏にまさるほどの善はないからです。また悪もおそれるに及びません。
阿弥陀仏の本願の救いをさまたげるほどの悪はないからである、と仰せられました。
http://www.hotokuji.com/tannisyo-1.html
2018/12/11(火) 午前 6:55[ 楽山 (自由) ]
一方、stさんの方は、
「現実に、罪と悪の事実が報じられる世界では、二千年前の十字架の贖いより、今、折に触れて、赦しを乞う祈りのほうが大切です」
というように、信仰のみではなく、「赦しを乞う祈り」という行為も必要だとしてると…?
2018/12/11(火) 午前 6:56[ 楽山 (自由) ]
> 自由さん
違います。
>shalomさんは、「信仰のみ」
シャロームは信仰ではなく、信じ込みです。仰ぐ姿勢は芝居です。
私の「赦しを乞う祈りのほうが大切です」は、信仰と別にあるものではありません。
これは、キリスト信仰の芯です。つまり信仰です。シャロームに欠けているものです。
シャロームの、イエスを信じる、というのは、自分の都合の良いように自分を救い守るイエスそして神であり、いちばん大事なところを外しているので、キリスト信仰とは言えないのです。
よろこびをも、かなしみをも、えらびとりて、あたえたまえ、
讃美歌の一節です。
かなしみのない信仰はあり得ません。最後は、地上で死を迎えるのですから。
2018/12/11(火) 午前 10:57st5402jp
シャロームの理路には、一見、教理のように見えても、実感がありません。教条主義の特徴です。だから、やたら讃美するしかなくなっています。
人間ならば「{人間の理路}」
あるいは、
「{人間の理路}」というのが人間だ
というのが、実感を内実とする人間の理路だと思っています。
もし、シャロームは神のこと信仰のこと、私は人間のこと現実のこと、を言っていると思っておられるなら、申し上げますが、
私たちが、根拠と是非を語れるのは、現実の人間世界だけです。信仰が現実離れすると、シャロームのような、自分の都合を超常に当てはめるような信仰になってしまうのです。そういう自己中心と、カルト化が、キリスト信仰の敵となっています。
2018/12/11(火) 午前 11:08st5402jp
> 自由さん
>「ぼくは悪にでもなる」には、おどろきました。
>でも、すぐに修正されたようなので、安心しました。
>悪いこと、罪なことは、できるだけ避けた方がいいと思うので。
おどろかないでください。
安心しないでください。
悪いこと、罪なことは、避けて通ることは出来ません。
キリスト教においては、真となるテーマと題材です。
そこを避けて、良さそうなことばかり言って、慢心しているのが、シャロームとカルトです。
2018/12/11(火) 午前 11:21st5402jp
真となるテーマ(誤)→芯となるテーマ(正)
2018/12/11(火) 午前 11:23st5402jp
罪と悪は避けて通れない、ということは、必ず罪を犯し悪を行うことがあるのが人間、というより、罪と悪の系譜が人間、とまで言って、だから、信仰による救いが必要、という考え方です。
罪と悪を避けることが信仰、行為義認と言いますが、そうではないのです。
罪と悪は避けられないなら、その時々に赦していただく以外に救いはないということです。
シャロームのように、考えることを止めてしまうと、十字架で成就したのがキリストの使命で、救い全体を受け取ったつもりになって、その幼稚な心性のまま訂正不能になってしまうのでしょう。もし救い全体であるならば、その後、聖霊も、そして、信仰さえも必要なかったはずです。シャロームは、利己を念じているだけです。
シャロームは「生ける神」という言葉を好んで使うようですが、生ける神は、生ける人間を救います。シャロームが、死体を叩いても蹴ってもびくともしない、という、信仰を死体に譬えるような、死の進行は、生ける神は語っていません。
2018/12/11(火) 午前 11:43st5402jp
罪と悪を、避けるべきもの、避けられるもの、という考えで生きてゆくと、シャロームのように、自分で気づかずに、自分では真っ当なつもりで、それこそ真っ逆さまに、罪と悪にどっぷりつかって、飲んで、飲みこまれてしまうことになるのです。
2018/12/11(火) 午後 1:06st5402jp
私たちは、常に、罪と悪と対峙して生きています。対峙しているだけでなく、原罪ある身の人間は、ときに、罪と悪を身にまとうこともあります。その罪性を認め、罪と悪の存在でもあることを認めることが信仰の始まりです。そこから、罪の告白と、時々の赦しを乞う祈りによって、改めてゆくのが、人間の成長です。
2018/12/11(火) 午後 2:10st5402jp
人間が、試練としての邪心に支配されることのないために、人間が神から与えられた良心をなくさずに済むように、また、その良心の働きを生かすことが出来るように、そして、人間が真実を喜び楽しめるようになるために、洞察と思慮と情感に満ちた知識から信仰が与えられるのです。
キリストから、それらの賜物を受け取らず、神の子だ、奇跡だ、贖いだ、救いだとばかり吹聴する向きは、聖書の一言さえ読んだことにはならないのです。
シャロームは、信仰告白のつもりで、背教宣言をしているのです。
2018/12/11(火) 午後 2:15st5402jp
>私の「赦しを乞う祈りのほうが大切です」は、信仰と別にあるものではありません。
>2018/12/11(火) 午前 10:57
>罪の告白と、時々の赦しを乞う祈りによって、改めてゆくのが、人間の成長です
>2018/12/11(火) 午後 2:10
なるほど。
「罪の告白」と、「赦しを乞う祈り」などは、信仰と別にあるのではないという考え方ですね。了解です。
2018/12/11(火) 午後 8:08[ 楽山 (自由) ]
>キリストから、それらの賜物を受け取らず、神の子だ、奇跡だ、贖いだ、救いだとばかり吹聴する向きは、聖書の一言さえ読んだことにはならないのです。
>シャロームは、信仰告白のつもりで、背教宣言をしているのです。
シャロームさんが書いてるのは、福音伝道というものかなと思って読んでました。
2018/12/11(火) 午後 8:58[ 楽山 (自由) ]
コメント欄、さっきは調子が悪かったみたいですけど、よくなったみたいだ。よかった。
2018/12/11(火) 午後 9:00[ 楽山 (自由) ]
>
シャロームさんが書いてるのは、福音伝道というものかなと思って読んでました
<
シャロームは福音伝道のつもりなのでしょう。つもりが、その通りとは限らないということです。その点はカルトと同じです。
シャロームが奇跡体験の話をしていましたが、ここでしたか。何か病気がよくなったみたいな・・今回も奥さんのがんの手術のことで、似たようなことを書いています。それを神の恵みと奇跡による守りだと思っているようです。だから今のままでいいと思っている。
そこで、自分のしてきたこと一切を合理化してしまっているのでしょう。一歩引いて、それが信仰なら、誰にとっても、いいことばかりになるはずだか、そうなっているかとか考える、というような内省的、また、一般的思考が出来ないようです。
選ばれている、という気持ちかもしれません。だから、執拗に伝えようとします。誰にとってもそうだったら、誰も苦労しないのに、それだけではないはずだ、と考えないのでしょう。いいことばかり考えて奇跡を待っている態度、その無頓着が人間性を破壊しているんじゃないかと思います。都合の悪いことを考えなくなったから。
2018/12/11(火) 午後 10:32st5402jp
> 自由さん
身内が転倒し、左肩の脱臼と軽い骨折をしてしまい、病院に連れて行ったりあわただしい2,3日でした。ちょっと疲れましたね。
「shalomさんは、イエスの十字架によるあがないを信じることと、悔い改めについては、どのようにお考えですか。
イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?
イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?
stさんのshalom批判のなかで興味ある論点なので、確認しておきたいと思った次第です。」
そうですね。私の信仰観と決定的な違いで相容れることがない点ですから当然でしょうね。この違いがキリスト教信仰と異端と言われるキリスト教系異端、エホバの証人、統一教会、モルモン教などとの決定的な分岐点であり、どのようなカルトも強調しているのではないかと思います。私が体験して感じたことで、聖書理解についても、きっとどんなに話をしてもかみ合うことがなく、一致を見出すことは出来ない点ですね。
2018/12/12(水) 午後 6:27[ shalom ]
「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。
「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]
>「ぼくは悪にでもなる」には、おどろきました。
>でも、すぐに修正されたようなので、安心しました。
>悪いこと、罪なことは、できるだけ避けた方がいいと思うので。
おどろかないでください。
安心しないでください。
悪いこと、罪なことは、避けて通ることは出来ません。
キリスト教においては、真となるテーマと題材です。
>私の「赦しを乞う祈りのほうが大切です」は、信仰と別にあるものではありません。
>2018/12/11(火) 午前 10:57
>罪の告白と、時々の赦しを乞う祈りによって、改めてゆくのが、人間の成長です
>2018/12/11(火) 午後 2:10
2018/12/12(水) 午後 6:31[ shalom ]
カルトはよくこのように主張して、人の信仰と心、生き方を操作、支配しようとします。
○○○○を追放できるなら、ぼくは悪にでもなる。
統一教会は蕩減復帰のあと為すべき責任があると言われたり、合同結婚させられたり、この世を蕩減するために霊感商法によって金品を詐欺商法によって販売し蕩減行為をし、だまし取ったものを統○教会にささげることを要求し、エ○バの証人は奉仕活動をし、輸血禁止など多くの戒律を守るよう求めるのです。またモ○ルモ○教は献身して仕事を辞め、宣教師となり仕えるように要求されたりするのです。
またオーム真理教は恐るべき犯罪集団となり、悲惨な犯罪を犯し、悲惨な結果を招きました。
自由さんは幸福の科学から何を学ばれたのですか。
2018/12/12(水) 午後 6:31[ shalom ]