*つづき
前記事のつづきです。
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>stさん
>2018/12/11(火) 午後 10:32
その辺りのことには、自分にも覚えがあります。
信仰心が旺盛だったころは、
いいことがあった時は、「神様のおかげ」と感謝して、
よくないことがあった時は、「この苦難困難には意味がある。神様はこれによって何かを教えてくれているんだ」と受け止めて、前向きになってました。
たぶん、これは宗教のプラス面なんだろうと思います。
ただ、こういう風に、あっさり割り切った考え方でいるときは、
あれこれ悩み苦しんでる人の気持ちが分からなくなってたようです。
「なんで、そんなに悩む必要あるの?」みたいに。
こういうところは宗教のマイナス面だったかも…。もっともこれは自分の場合はそうだっただけで、他の人の場合はまた違うかもしれないけど。
2018/12/12(水) 午後 8:04[ 楽山 (自由) ]
>shalomさん
大変なところ、わざわざありがとうございます。ご身内の方が早くお元気になられますように。
信仰と悔い改めについてのお話は、何回も読み返しました。次の文章は、特に、心にぐっとくるものがありますね。
>悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。
>悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
>だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。
>私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
今日は、よいお話を聞けました。
2018/12/12(水) 午後 8:06[ 楽山 (自由) ]
>自由さんは幸福の科学から何を学ばれたのですか。
>2018/12/12(水) 午後 6:31
shalomさんの期待する答えとは違うかもしれませんが、今一番に思い浮かんだのは、自分の愚かさですね。自分は全然分かってないなあと。
2018/12/12(水) 午後 8:24[ 楽山 (自由) ]
>私が体験して感じたことで、聖書理解についても、きっとどんなに話をしてもかみ合うことがなく、一致を見出すことは出来ない点ですね。
>2018/12/12(水) 午後 6:27
実は、自分は、意見が一致しなくても、あまり気にならない方だったりします。
自分は、甲と考える。
Bさんは、乙と考える。
Cさんは、丙と考える。
という具合に、他者の意見を知り、その差異が分かると、ひとまず満足。
他者の意見を、誤解することなく、なるだけ正確に理解できて、「自分はこう考えてるけど、あの人はそうではない考えを持ってるんだな」ということで一区切りです。
むしろ、一致させない方がいいんじゃないかと思ったりもしてます。
2018/12/12(水) 午後 8:38[ 楽山 (自由) ]
私のことを、カルトだと言いたいようです。私は、キリスト教ならば、罪の自覚や悔い改めなど、必ずあるはずのことを問うていますが、それを、体験と聖書理解において一致しないというのは、キリスト教ではない証拠です。
2018/12/12(水) 午後 10:20st5402jp
>
悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
<
などと、白々しく言っていますが、では、悔い改めたほうにシャロームは変わったのでしょうか。否です。シャロームは悔い改めたことが一度もないのです。そこでOUTなのです。
悔い改めたならば表れてくるはずの敬虔が表れず、悔い改めたならば、決してあってはいけないはずの、嘘吐き、侮辱、嘲笑い、などとともに、同じことを7年間言い続けているだけなのです。
2018/12/12(水) 午後 10:21st5402jp
自由さんの
「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
に対して
シャロームは
>
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
<
これが偽善者というものです。悔い改めの後が、どこにも表れていません。
そのための詭弁が次の通りです。
2018/12/12(水) 午後 10:22st5402jp
シャローム
>
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。
<
では、なぜ、悔い改めないのでしょう。悔い改めれば、それは書いたものに表れてくるのですが。
2018/12/12(水) 午後 10:22st5402jp
シャローム
>
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
<
このように、悔い改めは恵みだと言っています。
明らかに、自分で努めることを放棄しています。
信仰はそういうものではありません。信仰者は、信仰によって、悔い改めて成長する生き方をするのが、神を信じる者の道です。
シャロームは、神が自動的に悔い改めさせるかのような、させられ体験的なことを書いています。
我欲と自尊によって、怠慢と無視を正当化し、自分が悔い改めないことを、神の意志だと言っているのです。
2018/12/12(水) 午後 10:23st5402jp
シャローム
>
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
<
どうしようもなく罪を犯してしまった人に対する神の救いのメッセージです。光が当てられ、明らかにされるのは、悔い改めることで信仰によって救われるためです。
罪と偽善を、次から次に増し加えて、信仰者気取りものものには、報いが迫るだけです。
実に悍ましい詭弁をシャロームは書いています。
2018/12/12(水) 午後 10:23st5402jp
シャロームは、起きているのに、気づかず、キリストから離れて、地獄への下り坂を、照らされることもなく、人間としては死人のまま、ますます黒ずんで、ひたすら、裁きと報いへ向かっています。シャロームの悪魔性が今回いっそう明らかになっています。彼の言説を決して誰にも届かせてはならないので批判を続けています。
2018/12/12(水) 午後 10:23st5402jp
私の
>私の「赦しを乞う祈りのほうが大切です」は、信仰と別にあるものではありません。
>2018/12/11(火) 午前 10:57
>罪の告白と、時々の赦しを乞う祈りによって、改めてゆくのが、人間の成長です
>2018/12/11(火) 午後 2:10
に対して
シャロームは
>
カルトはよくこのように主張して、人の信仰と心、生き方を操作、支配しようとします。
○○○○を追放できるなら、ぼくは悪にでもなる。
<
カルトがよく使う手段であるところの、言われそうなことを批判者に向けてくる、という手練手管です。罪を犯し悔い改めながらでも、上にも書いたとおり、彼の言説を決して誰にも届かせてはならないので批判を続けています。
2018/12/12(水) 午後 10:24st5402jp
シャローム
>
統一教会は蕩減復帰のあと為すべき責任があると言われたり、合同結婚させられたり、この世を蕩減するために霊感商法によって金品を詐欺商法によって販売し蕩減行為をし、だまし取ったものを統○教会にささげることを要求し、エ○バの証人は奉仕活動をし、輸血禁止など多くの戒律を守るよう求めるのです。またモ○ルモ○教は献身して仕事を辞め、宣教師となり仕えるように要求されたりするのです。
またオーム真理教は恐るべき犯罪集団となり、悲惨な犯罪を犯し、悲惨な結果を招きました。
自由さんは幸福の科学から何を学ばれたのですか。
<
このように、ここでは直接関係のないところの、社会問題となった邪悪なカルトのことを言って、印象操作をしてきます。悪魔性です。
2018/12/12(水) 午後 10:25st5402jp
> 自由さん
わたしたちの日常生活における人と人との関係、ことがらにおいては私も自由さんの考え方に同感です。しかし、キリスト教という福音についての信仰観については神のみ心を歪曲してしまうような理解に陥らないように気を付けたいですね。
キリスト教系の異端とされている統一教会には原理講論が聖書理解の基本的考えですし、エホバの証人には新世界訳という自分の教理に合わせた訳の聖書があり、教理理解の本があります。モルモン教にはモルモン経というモルモン教によって作られた経典があります。
異端の教理のすべてが間違いであることではなく、ほんの一部が聖書のみ、信仰のみではなく、必ず+αが混入され、教祖の神格性や権威とづけの根拠とする教理によってカルト化されているようです。
2018/12/12(水) 午後 10:26[ shalom ]