*つづき
 前記事のつづきです。
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私の批判を聞かないために、シャロームが、信仰に人それぞれを持ち込んだということです。

人それぞれにならざるをえないのが現実ではないか、という現実があるのと、そのままでよい、というのとは違います。できるだけ掘り下げてゆくことで、到達はしないまでも、共通点はあるのです。それを一切無視しているのがシャロームです。つまり、シャロームは、人それぞれではなく、自分勝手を主張しているのです。
2018/12/13(木) 午後 3:22st5402jp



シャローム
キリスト教信仰は人の言葉や人の論理の上に建てられるものではありません。なぜなら人の言葉や論理は有限で、相対的なものだからです。

当たり前のことです。シャロームは、これをもって自分勝手を正当化したいようですが、一人一人が勝手な言い分で正当なら、信仰など、存在する意義が無いし、何の役にも立たないでしょう。

キリスト信仰は、言葉や論理の上に耐えられるものではありません。しかし、直感だけで正しさを主張するところから、シャロームのような、預言者気取りの、啓示だから文句は言わせない悪臭付きのペテン師が生まれてくるのです。
2018/12/13(木) 午後 3:22st5402jp



神聖も、ゆえに、信仰も、よく分からないところが多くあるゆえにこそ、人間同士は、話し合う必要があり、人間の世界でも修正してゆく必要があるのです。それを、可能性さえも認めず、御託のように当てつけてくるのがシャロームです。

確認しておきますが、シャロームは、神または聖霊からの啓示を根拠にして議論不要、と言ったのです。しかも、その言説には何の説得力もないのです。騙されないでください
2018/12/13(木) 午後 3:22st5402jp



シャローム
キリスト信仰は永遠普遍にして不変の生ける神ご自身の啓示と記録された聖書の御言葉、またイエスさまご自身が神の生ける言葉なのです。全聖書は聖霊が多くの人を通して、人の言葉によって記録された神の啓示の証しの言葉です。イエスさまがご自分の苦難と死を前にして助け主である聖霊が注がれることを恐れ戸惑う弟子たちに繰り返し深く語られたのはそのためだったのです。

神聖ばかりを語るシャロームですが、その現実面では、嘘吐きであり、何をやらかしても罪を認めないのだとしたら、どうして、この人をキリスト者と呼べるでしょう。彼の、神聖への、べた褒めに騙されないようにしてください。中身は、真逆です。
2018/12/13(木) 午後 3:23st5402jp



シャローム
聖書を除外し、離れて信仰、少なくともキリスト信仰について議論、批判し合うことは、虚しい不毛の論争であり、多くの異端裁判という痛ましい歴史があります。
ですから人の論理や心情による論争、批判、裁き、誹謗、中傷をどんなに正当化してもキリストに対する信仰に導かれ、イエスさまとの出会いにも、交わりに導き入れられることはありません。

聖書を勝手な解釈で曲げているのはシャロームです。
キリスト信仰について議論は有益です。ときに批判は必要です。シャロームが、それを空しい不能の論争というのは、シャローム自身が、議論不要の神の啓示という立場に立っているからです。

異端裁判を悪い例として挙げていますが、見当違いもいいとこです。シャロームを批判するのは、実害として、おかしなことを言う人が出てくるのを少しでも減らすためです。それに、批判は、刑罰という強制力を持ちません。批判に曝されることが刑罰だというなら、それを招いているのはシャローム自身です。
2018/12/13(木) 午後 3:25st5402jp



言っておきますが、キリスト信仰のベースにおいて共感できるサイトがいっぱいあります。私は自らに「悪」という言葉を歌から引用して当ててでも、辛辣な批判をしているのです。その情緒を全く解しないで、こいつは悪だとばかり、自分のブログに曝して、自分の都合の良いコメントとともに書いている者もいるようですが。

シャローム
「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」と聖書(ロマ10:17)は証言しています。

いくら聖句を引用しても、シャロームの場合、無駄だということです。
つまり、キリストの言葉を聞いて、曲げて、自分に都合よく固めているのは、シャロームです。
聖書の解釈と信仰の、ベースから、自己中心なのです。
2018/12/13(木) 午後 3:26st5402jp



シャローム
聖書の言葉に人の相対的な論理を+αしたものが異端であり、カルトは巧みに人の納得と共感に訴え、カルト、異端によって人の心と、生き方がマインドコントロールされ自由、さらに命まで奪われる恐るべき罠なのです。

また同じことをシャロームは書いています。書けばいいと思っているんでしょうか。
カルトも、シャロームも、+α、で済まされるものではないのです。キリスト信仰のベースをひっくり返しています。信仰の中心に自分の解釈を置いているからです。自分の解釈=神の言葉としたときから、きょうの有り様は定めのように決まっていたのかもしれません。
2018/12/13(木) 午後 3:26st5402jp



シャローム
しかし、異端、カルトの罠には人の心をとらえる魅力があります。アダムとエバが神が食べてはならい、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木に近づき、その実を見るとその魅力にひかれたのです。そこにへびであるサタンの誘惑にとらえられるチャンスを与えてしまったのです。
昔も今もそれは変わることがありません。

アダムとエバをカルト扱いしているようだが、アダムとエバは人類の祖として書かれていることを考えないのでしょうか。今も昔も変わらないとか、変わったからこそ、キリスト者という人々がいるのです。すみませんが、もう一度言います・・馬鹿か・・お前がキリスト者ではない証拠だ。いい加減にしろ。
2018/12/13(木) 午後 3:27st5402jp



こういう全か無かの断定がシャロームの特徴であり、その断定の訂正不能性ゆえに、彼は、キリスト者になれないのです。アダムとエバは、神に叱られて導かれました。シャロームは、独りで、とても見にくく訂正不能の孤島に住んでいます。

シャローム
確かな平安、正しい生き方を求め、深く、ひそかに心の飢え渇きを感じておられる、まじめな人、善意の人、素直な人ほどカルトの虜になっておられることが多いと感じます。

真面目な善意の人の中にシャロームは入っていません。そういう人を騙しているのがシャロームです。カルト思想を持ち、自己中ん、自己正当化だけの偽善者シャロームです。この人からは、無視不感不応無頓着無反省が生まれてくるだけです。
2018/12/13(木) 午後 3:28st5402jp



シャローム
自由さんはその痛みの経験がありますから、信じることに人の自由がなければならないと感じておられるのだと思います。

信じることに自由はありますが、身勝手があってはならないのです。大方のカルトと、シャロームは、詭弁をもって、身勝手を広めようとしています。偽善は、悪なのに、善に見せかけることだから、めちゃくちゃなことを言いながら平静を装って、笑いながら嘘を吐くような、シャロームは、ぴったり当てはまるのです。

自由と自己中心の身勝手を混同する詭弁です。自由は、自由に議論もしますし、何より、修正が可能なのです。どうかシャロームという訂正不能カルト教祖体質に影響されないでください。
2018/12/13(木) 午後 3:28st5402jp



シャローム
「真理はあなたがたを自由にする」とは聖書の言葉ですが、人による真理ではなく、神の真理であられるイエス。キリストご自身なのです。
「わたしは道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない」と言われたのはイエスさまご自身なのです。嘘であれば、イエスさまは最悪のカルトであり、最悪の詐欺師ですね。
是非コリント人への第一の15章を読んでみてください。

カルト教祖的体質を持っている者が根拠にするのは、こういう、神の真理、キリストご自身、ということになります。このことを豪語し、大仰に繰り返す以外にすべがないのです。

シャロームは、自己のためには、表現に事欠いて、キリストにまで冒涜の言葉を当てはめることに逡巡しないようです。キリストがシャロームの中で、いかに軽いかを物語っています。

キリスト者は、キリストの教えに嘘はないと信じています。分からないところを考えてきました。これからも考えてゆきます。

カルトであり、最悪の詐欺師は、シャロームに他なりません。
2018/12/13(木) 午後 3:28st5402jp



自由さん
「信仰は人それぞれでは済まされないという点については考えは同じみたいですね。」

シャローム
いいえ。同じではありません。
信仰という言葉に含まれていることには、
信仰の土台として神が据えられた永遠普遍、不変の不動の土台と、人による信仰の中身?あり方として、人がその土台を基礎としてどのような生き方をするかという二つのことにによって成り立っているのです。
建物に基礎と建造物があるのと似ています。
基礎は基礎は堅くて動かないものであり、建造物は人の思い、願い、好みによって様々な形、様々な建材を使って建てることと似ています。

シャローム「神が据えられた永遠普遍、不変の不動の土台」

絶対言葉を使うことで讃美するのは、カルトとパリサイ人などの偽善者の特徴でしょう。そのうえで、人の生き方を語るのは、しばしばカルトの脅迫に使われる言い方でしょう。
2018/12/13(木) 午後 3:30st5402jp



キリストが礎となる、という聖句から、喩えを広げたつもりで、人が建てる建造物を持ち出すというのは平凡ですが、それを、この文脈で持ち出すことは、自分は分かっている、という自慢にしかならないのです。

比喩というのは、形象化によってテーマから距離を取るために、よほど直感に訴えないと、それを書いて、似てる、というだけでは、テーマについて具体的なことを語ったことにはならない、という特徴があります。
2018/12/13(木) 午後 3:30st5402jp



シャローム
信仰の土台は神が据えられた永遠不変、不変。信仰の在り方、生き方は人がそれぞれ与えられた自由意思に従って、神が据えられた土台を土台として、神のみことばと聖霊の導きに従い、どのような生き方をするかは自由ということです。有限で相対的な不確かな神と神のみことばを信じないで肉に従って生きることもできます。

シャロームは、土台が間違っていると私は申し上げています。今さらのように、同じゴタクを並べるとは、シャロームが人の話を全く受け取っていない、受け取る気がないことを証明しているようなものです。
2018/12/13(木) 午後 3:30st5402jp



シャローム
信仰について自分の、人の考えによることば、論理のみで理解しようとしないでください。

シャロームは、信仰について、論理も理路も道理もなく、共感も不要とし、情感を込めるすべさえ知らず、神聖の言葉だけを振り回して、人間としての身の程を弁えず、自分の好き勝手に受け取って、罪を認めず、悔い改めず、ずっと同じことを言い続けています。悔い改めたのか、その表れはどこにあるのか、という問いに答えることなく。
2018/12/13(木) 午後 3:30st5402jp



シャローム
かえってその限界性と相対性のために混乱させらせら、人による偶像信仰に迷い込みます。神による信仰の土台を受け容れることも、信仰による歩み、生き方も、神は人の自由意思による選びにゆだねてくださっているのです。

シャロームは、限界性と相対性を混乱のもととして敵視して、偶像信仰と言っているようです。
まさに、その結果を表しているのが、シャロームなのです。相対的な人間が、絶対を分かっていることにしたゆえに、人の言うことに耳を貸さなくなり、不感不応になっているのです。
2018/12/13(木) 午後 3:31st5402jp



シャロームは、限界性と相対性を混乱のもととして敵視して、偶像信仰と言っているようです。
まさに、その結果を表しているのが、シャロームなのです。相対的な人間が、絶対を分かっていることにしたゆえに、人の言うことに耳を貸さなくなり、不感不応になっているのです。

人に自由意志があるといっても、神が人の自由意志を是としているわけではないことは、聖書においても明らかですし、歴史の事実においても、経過と結果によって明らかなのです。

このように、シャロームの人それぞれは、全く信用するに値しません。彼は、自分勝手を、長々と、あたかも、ほめたたえるかのように書いて、信仰に関わる人を煩わせているだけなのです。

また不謹慎なことを言いますが、シャロームは、耳かきの上に信仰を載せて、笑っているようなものです。それは違う、それは、ミミクソだ。大事なことは、そこには何もない。

だから、シャロームは、何も大事なことを伝えていないし、読み応えもないし、感動もないし、納得もないし、ただ浅はかな思い込みの執拗さだけを今日も書いているのです。
2018/12/13(木) 午後 3:31st5402jp



うわべだけ整えたつもりで、薄笑いの心の奥にに大きな闇を抱えて積み重ねてゆくような、シャロームと同じ道を、誰も選んでほしくない。
2018/12/13(木) 午後 5:00st5402jp



3:27コメを修正します。

アダムとエバをカルトに騙された愚か者扱いしているようだが、アダムとエバは人類の祖として書かれていることを考えないのでしょうか。

今も昔も変わらないとか、変わったからこそ、キリスト者という人々がいるのです。アダムとエバが要な教訓として描かれていることを、シャロームは自分と違う愚か者扱いしているのです。

そして今、とんでもない自己中心妄想から神を決めつけているシャロームという蛇に対して、キリスト者も、皆が無防備というわけではなく、闘いを続けている私のような者も出てくるということです。

シャロームの自己中心と、聖書の私物化と、神の決めつけと、訂正不能と、罪の無自覚と、悔い改めの不実行を、ゆるしてはいけません。
2018/12/13(木) 午後 9:31st5402jp



今までのコメントの外れ方から、シャロームは、ひょっとして、荒らしと同様に、宗教が嫌いで嫌いで、いちばん優しいことを言っているキリスト教を滅ぼしたくてしょうがないのではないか、とさえ思えてきます。荒らしとカルトと偽善者、体質において酷似しています。
2018/12/13(木) 午後 9:43st5402jp



>stさん
>シャロームは、ひょっとして、荒らしと同様に、宗教が嫌いで嫌いで、いちばん優しいことを言っているキリスト教を滅ぼしたくてしょうがないのではないか、とさえ思えてきます。

まさか。さすがに、それはないでしょう。
自分としては、キリスト教についてのシャロームさんのコメントには、熱い信仰を感じましたよ。
2018/12/13(木) 午後 10:12[ 楽山 (自由) ]



>shalomさん

>コリント人へ第一の手紙1章から3章まで読んでみてください。またローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙などを読んでみてください。

>是非コリント人への第一の15章を読んでみてください。

コリント一の1-3章、15章、読みました。ロマ、ガラテヤは少し時間をください。後日読みます。
ところで、自由についての考え方は、私より、shalomさんの方が幅広く考えておられるみたいです。私はわりと運命論者っぽいところがあるので。
2018/12/13(木) 午後 10:12[ 楽山 (自由) ]



>シャロームさんのコメントには、熱い信仰を感じましたよ

どこがでしょう。思い込みに熱狂しているだけだと思います。
私がここに批判を書くのがお邪魔なら控えます。
2018/12/13(木) 午後 10:52st5402jp



シャロームとじっくり付き合ってみると言いです。付き合いやすさが罠ですから。私は記事で批判してゆきます。
2018/12/13(木) 午後 10:57st5402jp



>stさん
>私がここに批判を書くのがお邪魔なら控えます。

そこは、お気になさらないで大丈夫です。

>シャロームとじっくり付き合ってみると言いです。付き合いやすさが罠ですから。私は記事で批判してゆきます。

こういう話を聞くと、ちょっと怖くなります。
でも今のところは、特に問題はないみたいなので、とりあえずは自然体でいようと思います。
2018/12/14(金) 午後 9:15[ 楽山 (自由) ]