*後期
 「★カルト体験 (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、反省できなくなってしまう?)」のコメントを以降しました。
 ここでは、shalom氏と私とで、多少すれちがいながらも平和な対話をしています。
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> 自由さん

神と人とが同じとは考えられません。神は創造者でありてあるものですが、人は被造された存在であり、ありてなきものですし、神は自存的存在ですが、人は依存的存在ですし、神は永遠不変、普遍の存在ですが、人は死すべきもので、神の心は聖、義、愛でいつも、どこでも、どんな時も変わることのない真実であり、人の心はころころ変わりますから心というともいわれますし、ここにいて、また同時にどこにでも存在できるわけでもありません。
養子論は私も聞いたことがありますが、養子縁組の前の人はどういう人だったのでしょうね。きっともともと神の子だったけれど、何か悪さをして、勘当されて神との縁を切られたけれど、悔い改めて帰ってきたので、また神の子とされた?ということなのでしょうね。
面白くて興味ある考え方ですね。でも何か悪さをする神の実子というのは神の性質にそぐわないようにも思われますし、神の御子であるイエスさまを実子とすると、人が神の実子でありながら、その人が神の御子であるイエスさまを神を汚すものとして十字架につけたのはどういうことになるのでしょうか?
ウ~ン、むずかしいですね。
2019/1/21(月) 午後 1:44[ shalom ]



>2019/1/21(月) 午後 1:44

記事に書いてるのは、ざっくりいえば、「霊性進化論」ということになると思います。

『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇』大田俊寛 (著)という本に詳しいです。
オウム、幸福の科学などが、どういう流れで出現してきたのがよくわかる。
2019/1/21(月) 午後 6:58[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん

人間が有限で、相対的存在である以上、その思想も有限で、相対的であることは避けられないはずなのですが、でもそのような不確かさからくる不安を逃れるために、その思想を確かなものであると信じようとするのも人の神を求めずにはおられない弱さゆえでしょうか。
2019/1/22(火) 午後 5:47[ shalom ]



> 自由さん こんばんは
イエス・キリスト信じる「霊性進化」に方向についてですが、普通私たちの進化という言葉のイメージからすると「下から上に向かうこと」と考えがちだと思うのですが、イエス・キリストを信じる道は「下へ上る道」と言えるようです。
それがイエス・キリストの道なのですから、
聖書にはそのイエス・キリストの上から下へ歩まれたことを次のように記されています。
使徒パウロの言葉です。
「2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」と。(ピリピ3:6~8)
2019/1/22(火) 午後 10:42[ shalom ]



また使徒ペテロは次のように書いています。
「 2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。 2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。 2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。 2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」と。
新約一ペテロ2:21~24)

さらに使徒パウロは次のように記しています。
『3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」
(新約第二コリ3:16~18)
2019/1/22(火) 午後 10:43[ shalom ]



「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。」とはしてへ上ることを意味しています。
それは十字架の道です。
イエス・キリストはご自分の苦難と十字架につけれられ死ぬ時が近づいた時、言われました。
『12:23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。 12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」と。
(新約ヨハネ12:23~25)
「自分の命を愛する者」はそれを失い、この世で「自分の命を憎む者は」それを保って永遠の命に至るであろう。
「自分の命を愛する者」とはこの世の下から上への道を歩む自己愛に生きるこの世を支配している道であり、それは死の道です。
「自分の命を憎む者」とはこの世でイエス・キリストの道である上から下への歩む自己愛をイエス・キリストともに生ける神にゆだねるいのちの道です。
2019/1/22(火) 午後 10:44[ shalom ]



イエス・キリストを信じて受ける洗礼について次のように使徒パウロは記しています。
「6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。6:4すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」と。
(新約ロマ6:3~5)

聖書の言葉を列記しましたが、これらのことは聖書全体を貫いている事柄です。
これらの言葉は神の言葉であり、神の御心ですから、この世の常識、人の思い、考えでは理解することの困難な言葉です。しかし、神は私たちを上から下へ登るイエス・キリストが歩まれた道へと導くことによって私たちにみことばの真実を悟らせることができるのです。
2019/1/22(火) 午後 10:45[ shalom ]



イエスさまがだれでも幼な子のようにならなければ神の国に入ることができないと言われた理由です。
言われてわからなかったのはニコデモというイスラエルの律法の教師であるニコデモでしたが、霊的な神の真理は神が導き、開いて下さいます。
「2:4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
2:5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。 2:6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
2:7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。」
(新約・一コリ2:4~7)

信仰は私たちの思想ではなく、神の啓示と神のみことばと神の導き、助けによって与えられる事柄です。

また長くなりました。また明日お会いしましょう。
おやすみなさ~い
shalom!
2019/1/22(火) 午後 10:47[ shalom ]



霊性進化論については、この辺りが参考になるかもしれません。

大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)読書感想文
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/13/182145
「霊性進化論」について思ったこと
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/15/020137
霊性進化論を信じる渡邉美樹
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/17/224053
番外篇File001:創造意識(惑星エル星意識etc.)中村光希
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/07/20/135354
大田俊寛さんインタビュー「なぜ人間はオカルトにハマってしまうのか?」
http://antikkuma.hatenablog.com/entry/2013/08/23/225356
2019/1/23(水) 午後 9:29[ 楽山 (自由) ]



>2019/1/22(火) 午後 10:47

信仰は神の導き、救けによって与えられるというのは、ちょっと分かる気はします。
まえは、信仰に限らず、よい思いは自分の良心の働きと感じてたけど、最近は自分以外の働きがあるような気がすることはあるので。
まあこういうのは錯覚で、実際は遺伝や育成環境の影響にすぎないかも、だけど。
2019/1/23(水) 午後 10:30[ 楽山 (自由) ]



自由さん
2019/1/22(火) 午後 10:44のコメント
「してへ上ることを意味しています。」は「下へ上ること」です。「下へ上る」なんて変な言い回しですが、聖書にはこんな変な言い回ししないと表現しにくい言葉や文章があるようです。
それも大事なことほどですから厄介です。
2019/1/25(金) 午後 4:36[ shalom ]



> 自由さん

とりあえず「大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)読書感想文」を読みました。
とても分かりやすくなるほどと思いました。
根っこにあるのはやはり
「しかし言うまでもなく、それらを生み出してきた人間の負の心性自体が、根本的に消え去ったというわけではない。そうした心情は今日、社会システムの過度な複雑化、地域社会や家族関係の歪み、個人の孤立化などによって、むしろ増幅されてさえいるだろう。」ということだと感じました。

また自由さんがこのような霊性進化論に20数年以上かかわってこられたのだとわかりました。
また少しずつ読んでみますが、やはりイエスさまとともに「下へ上る道」、十字架の道こそがいのちの道あると思わされました。感謝!
2019/1/25(金) 午後 5:12[ shalom ]



霊性進化論は、幸福の科学的にいえば、霊的人生観ということになるかと思います。

人の本質は霊であって、永遠の生命をもっていて、この世とあの世を輪廻転生しつつ、霊性の向上を目指しているというような人生観。
2019/1/25(金) 午後 8:15[ 楽山 (自由) ]



あと、霊性の向上といっても、それには二つの方向性があるとしてたかな。
上求菩提、下化衆生というやつ。
霊性向上を求めつつも、迷っている人々の救済にも励むというような感じ。
別な言い方をすれば、進歩と調和かな。
幸福の科学でも、それなりの理屈はあるってことですね。
2019/1/25(金) 午後 8:16[ 楽山 (自由) ]



ただ、おかしいのは、幸福の科学は、ダーウィンの進化論の影響下にあるだろう霊性進化論を唱えながら、ダーウィンの進化論にダメ出して猛批判してるところ。

さらに言えば、大川隆法はダーウィンの霊言で、ダーウィン霊に、人になりかけの猿を探していると言わせてたこともおかしい。
普通に考えれば、本物のダーウィンだったら、猿と人との共通の祖先を探してるとは言っても、人になりかけの猿を探してるなんて言うわけないんだけどね。
多分、大川隆法は、猿が人になったというのと、猿と人は共通の祖先をもつということの違いが分かってないのだろう。
2019/1/25(金) 午後 8:21[ 楽山 (自由) ]



なんか、また批判がましいことを書いてしまったけど、大川さんの本は、いろいろな分野のことを語ってるから、いろいろな分野に興味を持つ切っ掛けづくりにはなるかもしれないけど、間違い、デンパ、トンデモもすごく多いから、そこは注意が必要だとは思います。
2019/1/25(金) 午後 8:40[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん おはようございます
「大川さんの本は、いろいろな分野のことを語ってるから、いろいろな分野に興味を持つ切っ掛けづくりにはなるかもしれないけど、間違い、デンパ、トンデモもすごく多いから、
そこは注意が必要」

きっとそうですね。
偽札鑑定の秘訣はたくさんの偽札を触り、知るよりも、とにかく本物によく触り、知ることが大事だと聞いたことがあります。
幸福の科学も科学なのでしょう。科学は仮説とその検証、実験から始まりますが、生ける神は作家が作品によって自己を表現するように、神は被造物とご自身の啓示の器として選ばれた民とその歴史、超自然的な神の御業、啓示によってご自身を証しされますが、神の御言葉である聖書と御言葉の真理を拓き、悟らせてくださる聖霊の導き、助けが何よりです。
2019/1/26(土) 午前 9:49[ shalom ]



イエスはご自分の苦難と死を前にして、不安と恐れにおののく
弟子たちに次のように約束されました。

新約・ヨハネによる福音書
16:12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

ヨハネによる福音書14章から16節はイエスさまの死をまえにされた死の意味、死後に起こることを語られた遺言なのです。
2019/1/26(土) 午前 9:50[ shalom ]



団体の名称については、はじめのころは、「幸福を科学する」ということだったかと思います。真なる幸福とは何かを探究しようとか、そんな感じ。

そうして、「あの世とこの世を貫く幸福」という標語がありました。「この世で金持ちになり、権力もってウハウハでも死後に地獄に堕ちたら仕方ない。逆に、あの世で天国に還れてもこの世では不遇で悲惨なのもつらい、そうであれば、この世でもあの世でも幸福な生き方を探求しよう」という感じですね。

ただ最近は、「〇〇を科学する」という話はほとんどなくて、とにかく信じることを推奨してるようです。教祖は、「君よ、涙の谷を渡れ」などの法話で、「何も考えずに信じてついてきてください」と訴えてるそうです。
2019/1/26(土) 午前 10:21[ 楽山 (自由) ]



「知ること」については、OR(大川隆法)は、知ることの大切さを説きつつも、それ以上に信じることを重視してます。
知るとか、科学とかは、おもにこの三次元世界の話であって、信じることはこの三次元世界を超えた世界の話だから、信じることの方がスケールが大きく、大事だとか…。
「知ること <<< 信じること」ということらしい。

でも自分はこれと逆に、「知ること >>> 信じること」と考えてます。「知らないことは、信じようも何もない。はじめに知り、そのうちのどれかを信じるということになるんだろうし、だったら、信じることは、知ることより範囲は狭いんじゃないか」と思うので。
2019/1/26(土) 午前 10:22[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん こんにちは

「知るとか、科学とかは、おもにこの三次元世界の話であって、信じることはこの三次元世界を超えた世界の話だから、信じることの方がスケールが大きく、大事だとか…。」

仏陀は徹底的に知ることを追い求め、この世における三次元を超える世界はあるともないとも考えず、涅槃寂静という三次元世界の最高の悟りの境地を得ましたが、それは悟りを開いた人だけのの小さな乗り物といわれる小乗仏教となり、人は知っても、修行を積んでも悟りを得ることができないとき、信じるだけで救われるだれでも一緒に乗ることができる大乗仏教という大きな乗り物を涅槃寂静に代わる阿弥陀如来による三次元を超える救いを見出したとおもわれます。
2019/1/26(土) 午後 1:28[ shalom ]



人は知ることから信じることへ三次元の世界から三次元を超える世界に飛躍するには人にはどうしても超えられない渕があるようです。イエスさまは滅びに至る道は広く、命の至る道は狭いといわれましたが、幼な児のようにならなければ神の国へ入ることはできないともいわれました。その道は人には狭い道のようです。幼な児は知の世界ではなく、信の世界に生きているといえると言えるかもしれませんね。人には広いようで狭い道だといえるでしょうね。
2019/1/26(土) 午後 1:29[ shalom ]



>幼な児のようにならなければ神の国へ入ることはできないともいわれました。

この部分については、自分は文字通りに解釈してたけど、もうずっと前に、さる方は、幼児というのはイエスのことだとか言ってたのが、すごく印象的でした。ああそういう解釈があるんだなと。
2019/1/26(土) 午後 4:58[ 楽山 (自由) ]



仏陀の話がでてるけど、仏陀の人間観といえば、五蘊仮和合ということなんでしょうかね。

・五蘊仮和合 - 宇宙のこっくり亭
https://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/e/6b63916f29de10b092f69c051f23bb21
2019/1/26(土) 午後 5:00[ 楽山 (自由) ]



どうも自分にとっては、五蘊仮和合を信じるのも、特定の宗教の神様を信じるのも、どっちも難易度は高いです。
やっぱ、霊魂、あの世、神はあるような気もするけど、でもやっぱりないのかもしれないという宙ぶらりんの無宗教が一番、性に合ってるようではあります。
2019/1/26(土) 午後 5:08[ 楽山 (自由) ]