*つづき
 前記事のつづきです。
 shalom氏との一対一の対話がつづいています。
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> 自由さん こんばんは
「幼児というのはイエスのこと」
一番わかりやすく、一番いい解釈だと思います。
が、イエスは罪なき神の御子であり、私たちは神のかたちにかたどって造られた人の子ですが、イエスが父として信じておられた神との関係と交わりを見失っているのです。その的外れの状態を罪と言います。そのために、イエスのような幼児のような信仰を信仰とすることができないのです。
イエスの主体性は父なる神に対するイエスの自由意志による信仰によって、神にゆだねられていましたが、神が食べてはならない、それを食べると死ぬと言われた善悪を知る木の実を食べることによって、神との自由意思による信仰をと関係を失いう、それを死というのです。その死によって私たちは自由意思によって神の御手にゆだねる信仰ではなく、善悪の基準を自らの手の内にあるとして、私たちの主体性は神に対する不信仰によって支配されて生きるものとなっているのです。
2019/1/26(土) 午後 6:03[ shalom ]



神は私たちの罪によって失われた神への自由意思による幼児のような信仰をイエスの十字架の死によって、本来私たちが罪の代価として自ら支払うべき代価を支払い、私たちが神による罪の贖いによって与えられる罪の赦しを信じ受け容れるとき、失われた神との関係と幼児のような信仰を回復してくださったというのが福音なのです。幼児のような信仰はイエスが幼児のように神のみことばと聖霊の導きによって十字架の死に至るまで従い生きられたように、御言葉と聖霊の導きに対する幼子のような信仰によって生きることなのです。ですから、イエスさまはご自分の死を前にして語られた遺言によって、そのことが明らかにされているのです。(ヨハネ14章~16章)
2019/1/26(土) 午後 6:04[ shalom ]



弟子たちにイエスは今は、知性や理性では耐えられない、理解を超えたことだとイエスは語っておられますが、しかし、助け主である聖霊がイエスの死、御業、語られた言葉、神の御心を、イエスの死後、あなたがたに教えてくださいますと語っておられるのです。
このようにして神はイエスによって幼児のような信仰へとわたしたちを導いてくさるのです。まさに人にはできないが、神にはできる律法の成就であり、救いの成就です。
2019/1/26(土) 午後 6:05[ shalom ]



ありがとうございます。幼児というのはイエスのことだという解釈は、アリみたいですね。ふむふむ。

あとの部分は、自分には難しいですけど、「的外れの状態を罪と言います」というのは、うろ覚えですが、三浦綾子のエッセイで読んだことがあるような気はします。

それにしても、shalomさんはすごいですね。情熱的な語りに圧倒されました。
2019/1/26(土) 午後 7:13[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん こんばんは

「あとの部分は、自分には難しい」

たしかにキリスト教という一宗教の考え方としてはきっとわかりにくいと思います。でもきっと自由さんなら、これが本来の姿である人間の心の神に対する幼子のような信仰、信頼を、神のようなものになれると騙し、偽り、自由意思を奪い、主体性を奪い、善悪の基準をすべてカルトの支配者にゆだね、支配されカルトのいうがまま罪の奴隷とされ隷属化された人間を支配者であるカルトのボス?から救い、解放し、癒すために、神がイエスという救済者、解放者、癒し主を遣わされたと想定すればわかりやすいと思いますがいかがですか?
2019/1/26(土) 午後 9:47[ shalom ]



確かにイエスは騙され、的外れの罪の奴隷と化している私たちを救い、解放し、癒す方なのです。現実にカルトに勝利し、囚われている人を解放し、人それぞれの自由を超えた、神に対する自由意思を回復し、その自由意思と主体性を回復するために神がイエスを遣わされ、罪の奴隷としての自我をイエスととも十字架につけられる死の道によるほかに確かな救いはないと思われますが、いかがでしょうか。

大坂なおみさん全豪オープンテニス優勝しましたね!
一度は逆転されそうになりましたが・・・あっぱれ!優勝しました!うれしいですね!
2019/1/26(土) 午後 9:47[ shalom ]



うーん、自分は最近は、「〇〇は、××のためだった」という考え方は、なるだけ避けてます。

ずうっと前に、大川本を読んだ時、「自分が生れてきたのは、この教えと出会うためだった」と思い込んで痛い目に遭った過去があるので…。
2019/1/27(日) 午前 8:35[ 楽山 (自由) ]



ものごとに意味や目的を見いだせれば、すごく気持ちがいいし、生き甲斐を持てるのはわかります。

でも自分は元々、迷信深く、思い込みが激しいところがあるので、そっち方面にはあまり進まない方がよさそうではあります。
2019/1/27(日) 午前 8:36[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん こんにちは

「痛い目に遭った過去」、「迷信深く、思い込みが激しいところがある」

自由さんのその気持ち私もあります。
痛い経験や迷信など、私たちの心、生き方を不自由にしているトラウマを乗りこなすのは難しいですね。やはり辛いこと、思い出したくないことの再体験は嫌でつい避けて通りたくなります。
でも振り返ると私の大きな生き方の転機はいつも行き詰まりやそういう避けて通りたいときに開かれたことが多かったように思います。よく危機はチャンスだなんて言われますが、確かにそうだなと思います。
神はその時、私をいやなトラウマから自由にして、神による新しい道を開かれる時だということは聖書に一貫して証しされていることのようです。
イエスの十字架の苦難と死はイエスにとって最悪の出来事ですが、それが父なる神の最善の道だと信じて、まさに幼児が親の手にゆだねるように“私の思いではなく、御心のままにしてください”と祈られたイエスさまの祈り、信仰の歩みによって私たちの前にいのちの道が開かれたのですから感謝ですね。でも、それでもやはり避けて通りたいと思う弱い自分がありますね。
2019/1/27(日) 午後 3:24[ shalom ]



トラウマというか、心の傷というか、そういうのもあるけど、どうもこういう思考は、ヒトの脳が持っている癖でもあるようなんですよね。目的‐機能論的推理とかいうらしい。
ちょっと検索してみたところでは、この説明が分かり易いかも。
2019/1/27(日) 午後 7:56[ 楽山 (自由) ]



>『ヒトはなぜ神を信じるのか』 逃れられない神の目
>本書には、信仰が生得的である証拠を示す研究が多数紹介されている。例えば、ボストン大の心理学者ケルマンによる実験では、7~8歳児は、自然界の無生物は目的を持って存在している(例えば、木は鳥が休むために存在する)という、目的‐機能論的推理を圧倒的に好む傾向が示されている。これは、親が宗教を信仰しているかどうかに因らない、普遍的な傾向だそうだ。学校教育を受けている多くの子どもは、10歳を越える頃から、目的‐機能論的説明よりも、科学的説明を選び始める。しかし、教育を受けていない大人のジプシーやアルツハイマー患者は、いずれも目的‐機能論的説明を好むという。
https://honz.jp/articles/-/15418
2019/1/27(日) 午後 7:57[ 楽山 (自由) ]



自分は先に述べた通り、大川本を読み、ハマったときは、「自分はこの本に出会うために生まれてきたのだ」と思いつめてしまったのでした。

あと、大川さんの言動に疑問を持ち始めた頃は、「これには深い理由があるに違いない。何かの目的のために、あえて矛盾したことをしているのだろう」と思うようにしてた。

さらには、退会したときには、「自分はなぜ大川さんを信じてしまったのだろう…きっと前世のカルマ清算のために違いない」と考えたりしてた。

その中身は、「自分は、前世ではアングリマーラのように、師匠の間違った命令を拒否できなかったのだろう。だから今生では、カルト教祖の信者となり、その間違った命令を拒否できるかどうかという課題が与えられたのだろう」というもの。

まさに、ずうっと、「〇〇は、××のためだった」という思考だらけです。
2019/1/27(日) 午後 8:00[ 楽山 (自由) ]



というわけで、自分はそろそろこういう思考から抜け出さないといけないなあと思ってます。

こういう思考は、ヒトの性でもあるようだから、完全に抜け出すのは無理だろうけれども、今よりもうちょっと距離をおきたいなあと…そういうわけです。

自分は、心霊とか、宗教とかの知識を仕入れちゃってるので、もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまうのは火を見るより明らかですから、ここは自分を守るためにも、そっちとは距離をおくしかないということ。
2019/1/27(日) 午後 8:14[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん こんばんは
人と他の生き物との違いは本能に従って生きるか、本能と自由意思をもって三次元世界における目的、意味にかなう行動、生き方を選択すること、またその生き方がどのような死後の三次元以上を世界、地獄や極楽、天国、神の国を招くかを考えたりすることと言えるかもしれませんね。だから人は寺院をつくり、宗教的な儀礼や墳墓に副葬品を備えたりするのではないかと思います。このこと自体はどんなに科学が進歩しても、古今東西、人の心にあり、特に日本人の心にはアニミズムに由来する因襲が日本文化の核になっていることは否定できませんので、日本人が日本人である以上なくなることはないと思われます。今日の政治風潮も明らかにそういう強い傾向への回帰を感じさせます。
2019/1/27(日) 午後 9:58[ shalom ]



「自分は、心霊とか、宗教とかの知識を仕入れちゃってるので、もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまう」

そういう私たちの過去の心の痛みや苦しみ、不安、飢え渇きから解放し、癒し、真の自由を与える方がイエスだと私は信じ、それが真実であることは聖書の証言でもあり、私の体験として知っています。
真理はあなたがたに自由を与えますなんて人が言える言葉ではありませんし、さらに、イエスは私は道であり、真理であり、いのちです。だれでも私によらないでは父のもとに行くことは出来ませんと言ったり、それは狂気の沙汰で、神でなければ神を汚す人物に違いありません。私もそう思います。カルトの教祖にはそういう人物もいるようですね。イエスも伝統的なユダヤ教によるとそういう人物だと断罪されたのです。
2019/1/27(日) 午後 9:59[ shalom ]



カルトにかかわった人はほんとうに深いトラウマを心に負いながら、「もし目的‐機能論的推理をすれば、上で少し述べたようにトンデモ、デンパな方向に行ってしまうのは火を見るより明らかですから、ここは自分を守るためにも、そっちとは距離をおくしかないと」と長い間新たな心のよりどころを求めながらも、フォビア(恐怖)と戦っておられる人が多いことは私も数人知っていますし、否定できない事実です。私も決して例外ではありません。私が劣等感のないオープンな人だと書いておられましたが、わたしにも同じような防衛機制がはたらいているのです。自己防衛機制は決して悪いものではありませんが、同時に自分の心の自由な働きを規制し、拘束する働きでもあります。
2019/1/27(日) 午後 10:00[ shalom ]



同化も投影も反動形成も、知性化も・・・私たちの防衛機制として働いていますが、他の人を批判したりしていても、ある意味自分を守るバリアーでもあります。
自由さん。自由さんだからこそ、私はこうして私の思うこと、信じることを自由に書いていますが、だれにでも書けることではありません。それは自由さんが自由であり、真剣に自由に生きようとしておられるからです。自由さんの心に踏み込んだり、批判をしている意図はありませんので、いつでも自由に思うこと、感じることを書いてください。ほんとうに自由であることには自分のうちや外との戦いなしには生きることは出来ませんね。
この世にあってはあなたがたには戦いがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っていると言われたイエスがいつも共におられます。私たちが自覚しようと自覚できないとしても。
SHALOM!
2019/1/27(日) 午後 10:02[ shalom ]



こんばんは。
とくに批判されてるとは思ってませんけど、信仰と情熱に圧倒されてはいます。
全然関係ないことですけど、なんとなしに、ジョー・ペリーの「熱く語れ!」を思い出しました。子供の頃に雑誌広告で見て以来、「熱く語れ!」というのは忘れられない言葉になっているせいかな。

・ジョー・ペリー・プロジェクト「熱く語れ!」1980年
https://ameblo.jp/johnny-marr/entry-11377426752.html
2019/1/28(月) 午後 7:51[ 楽山 (自由) ]



目的‐機能論的推理に対する警戒は、自分を含めた他のHS信者さんたちを見てのことでもあります。

霊的なことを信じた上で、目的‐機能論的推理をすれば、なにかにつけて、「この事件の霊的な背景はこうだ。霊的な理由はこうだ」という考え方をするようになるようです。その結果、妄想と現実の区別がつかなくなってゆく…。私はそんな風にはなりたくないと思っるわけです。

目的‐機能論的推理は、ヒトの性のようだから、無くすことはできないし、そんなことを目指すべきではないだろうけれども、それが暴走しないように注意はしておこうと…。
2019/1/28(月) 午後 8:07[ 楽山 (自由) ]



自由については、私は自由尊重の立場ではありますが、その一方で運命論者でもあったりします。
絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。
マーク・トウェインの『人間とは何か』に共感するところも多いです。

・『人間とは何か』マーク・トウェイン
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html
2019/1/28(月) 午後 8:08[ 楽山 (自由) ]



自由については、過去にいろいろ書いてるので、そのうちに、まとめ記事にするつもりではいます。
2019/1/28(月) 午後 8:08[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん 自由さんの気持ちはよく理解できます。
教会でも目的‐機能論的推理による暴走はよくあります。
教会で聖霊の働きである導き、助けを強調されるとよく分裂、混乱が起こることがあります。霊はなにしろ見えないのですから、たしかにそういう危うさには気を付ける必要がありますね。そのために聖書のみ言葉との整合性をつねに求めることが不可欠だとおもいます。
使徒パウロは弟子であるテモテに次のように書いています。

新約・第二テモテ
3:14あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
2019/1/28(月) 午後 9:22[ shalom ]



ほかにもたくさん聖霊について書かれています。イエスさまも死を前にして弟子たちに聖霊の来臨とその働きについて話しておられます。イエスさまを信じる信仰は人から生まれた思想ではありませんから、神の言葉である聖書という土台抜きにはあり得ないのです。
2019/1/28(月) 午後 9:23[ shalom ]



> 自由さん

「絶対神がいるなら全ては予定されてるだろうし、絶対神がいなくても何らかの法則があるなら全てはニニが四なんだろうなあと。」

神はとことんまで私たちの主体性と自由を尊重されます。カルトのように決して法則で私たちを縛り、支配される方ではありません。私たちは自由に選択し、行動することができますが、決して結果を選ぶことは出来ません。その結果が私たちにとって苦々しい受け入れられない結果であっても、その結果をとおして神は最善の導きをしてくださる方なのです。私たちの弱さや過ちですら、ご自分の祝福の通り管とすることのできる方です。
2019/1/28(月) 午後 9:50[ shalom ]



確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。
神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。
2019/1/28(月) 午後 9:51[ shalom ]



・ジョー・ペリー・プロジェクト「熱く語れ!」1980年
https://ameblo.jp/johnny-marr/entry-11377426752.html

開かれず、再生できませんでした。

・『人間とは何か』マーク・トウェイン
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html

明日聞いてみます。
2019/1/28(月) 午後 10:06[ shalom ]