*つづき
 前記事のつづきです。
 st氏はここで、shalom氏と私との対話に強引に割り込み、一方的な非難をはじめます。スルーされると、さらに語調を強めて文句をつけてきます。
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自由さん おはようございます

・『人間とは何か』マーク・トウェイン
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40319287.html

読んでみました。コメントは読後感想文でしました。
最後の締めがいいですね。
2019/1/29(火) 午後 3:24[ shalom ]



ちなみに、自分の場合は、
『人間とは何か』マーク・トウェイン
『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー
『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
みたいな本を読むことで、霊性進化論の影響が薄まっていったようです。
2019/1/30(水) 午前 7:22[ 楽山 (自由) ]



人間の主体性と自由について、シャロームは、相当に軽視してきたと思いますが、ここでは、手のひらを返したように、神が主体性と自由を尊重すると言っています。しかも、その結果を通して神が最善の導きをしてくれると言っています。さて、シャロームは、悔い改めない罪と偽善に塗れていますが、その偽善が神の祝福の”通り管”だとでも言いたいのでしょうか。
2019/1/30(水) 午後 2:01st5402jp



確かに私たちが罪を犯せば、その罪が私たちの苦い結果をもたらしますが、神はその苦みをとおして、私たちをご自分のみもとに引き寄せ、み言葉の真実を証しし、私たちの信仰をみことばしっかり結び付けてくださいます。信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉からという聖書の言葉だと書かれています。

シャロームの罪と偽善は、苦い結果によって、シャロームを、神のもとに引き寄せたでしょうか。神に引き寄せられたのなら、今までの罪と偽善を悔い改める発言があるはずですが、シャロームは、相変わらず、悔い改めた発言も様子も示さないまま、ここに、まともなつもりで、説教を書き続けていることが、そのことを明確に否定しているのです。
2019/1/30(水) 午後 2:01st5402jp



神はすべてのことを相働かせて益としてくださる方だとも聖書にかかれています。全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたがたの道をまっすぐにされるとも書かれています。
どんな弱さも失敗も神には神の恵みをあらわし、祝福としてくださいます。

シャロームが上で神が尊重すると言ったシャロームという人間の主体性と自由において、神はすべてのことを相働かせて益としてくださっているでしょうか。道は真っ直ぐになったでしょうか。何も益とはならず、真っ直ぐにもならず、シャロームは、何事も無かったかのように、自説を説教し続けています。シャロームの言行も因果も矛盾しています。
2019/1/30(水) 午後 2:02st5402jp



弱さも失敗も、正直に告白して赦しを祈る精いっぱい誠実な信仰者にとってだけ、神の恵みは顕れ、祝福となるのです。つまり弱さや失敗が、成長の糧になってゆくのです。

シャロームは、罪と偽善を悔い改めず、罪悪感も抱かず、まるで気にせずに、白々しい説教言葉と聖書語を言い続けているあいだ、悔い改めない者として、偽善者のままであり、ますます、ペテン師らしく、平気で嘘を吐いて回るようになってゆくのでしょう。
2019/1/30(水) 午後 2:02st5402jp



※ TVドラマ「クリミナルマインド」の格言から

http://toikimi.hateblo.jp/entry/2018/07/11/211656

庭には、植えたつもりのない物の方が多く育っている。(スペインのことわざ)

https://twilog.org/cminds_bot/month-1508/3

物事は見かけ通りとは限らない。見かけにだまされる人間は多い。ごく少数の知恵のある者が、巧妙に隠された真実を見抜くのだ。 ファイドロス (S4#4)

経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。 C・S・ルイス(S5#13)

人は嘆き悲しむからこそ人間なのである。 アントニオ・ボルキア(S6#20)
2019/1/30(水) 午後 2:02st5402jp



> 自由さん

やぁほんとうに自由さんの読書歴は豊富ですね。
あちこち記事を読みながら自由さんは本当の人や物事に対する気配り、目配り、心配りが豊かなのだなと感じます。すばらしい反面、これでいいのかなという心の揺れをよく感じられることもありなのかなと感じます。宗教は確かな視点になりそうで、またある種の偏りとなる危うさとなることもあるのですから、本を読まれて、いろんな考え方や心の思いなどと触れてより良い配慮ができるようにしようとしておられるのかなと思ったりしています。
2019/1/30(水) 午後 6:50[ shalom ]



すぐそばにある不都合なコメントをスコ~ンと無視して、背筋がぞっとするようなベタ褒めでご機嫌取り、この見かけの優しさが、7年付き合っていると、身の毛の弥立つ思いです。このコメントの背後にある、意地と無視力の悪意の強さを知ってほしいところです。まさに、ペテン師の営業トークでしょう。
それと、シャロームが、病気や障害を持つ人に関わると、その人を滅ぼすことになるでしょう。そういう例があったのではないかと推測します。そういうことも、無かったかのように、忘れることの出来るシャロームだから、恐ろしいのです。
2019/1/30(水) 午後 7:11st5402jp



心の揺れというのは、私の文章を読んでそういう風な感じを受けることがあるということでしょうか。うーん、それはもろもろの理由から、あえてそういう表現をしているだけの場合もちょいちょいあります。
2019/1/30(水) 午後 7:59[ 楽山 (自由) ]



おはようございます。

本を読むには、できるだけ偏りを無くそうというのはありますね。一つの意見を知ったら、その反対意見も知っておこうとか。
でもこれって実践は結構難しいですね。やっぱ好悪、相性はありますからね。どうしても好きなもの、相性のいいものに偏ってしまうので。
2019/1/31(木) 午前 6:58[ 楽山 (自由) ]



話があちこちで進んでるので、ややこしくなってますね。
全部にコメント返すのは大変っぽいので、とりあえずここに書いてます。
2019/1/31(木) 午前 7:05[ 楽山 (自由) ]



このブログは、最近はほとんど趣味のブログになってますが、前はHSの信者、退会者を意識してたりしました。そのせいもあって、HSでタブー視されてる考え方、本、映画などをたくさん紹介してました。
ORの教えは絶対だという考え方に対しては、「ORとは反対の考え方にもすばらしいものがあります」としてORの教えの相対化をはかってるわけです。
また、あれだめ、これだめという考え方には、「HSが禁じている本、映画にも素晴らしいものがいっぱいあります。自由にいろいろな本、映画を見ましょう」というわけです。
2019/1/31(木) 午前 7:15[ 楽山 (自由) ]



、、、稀に、このブログを読む価値無しとしつつも、無視できないでいる信者さんもいるみたいだけど、多分、上のような部分がその理由なんだろうなあと想像してます。
ちなみに、信者と議論になった時などによく言われる言葉はこれです。

「もっともらしいことを言ってるけど、決して騙されないぞ!」

信者さんもORの教えは絶対ではなく、その反対の考え方にも理があることは分かってるんだと思います。でも「アンチは悪霊悪魔だ、アンチの言うことを聞き入れてはいけない」という風に、マインドコントロールされて、心の自由を失ってるみたいです。ここは本当に気の毒です。
2019/1/31(木) 午前 7:26[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん おはようございます

「教えは絶対ではなく、その反対の考え方にも理がある」

そうですね。
教えはすべて相対的で、一長一短、それも状況によって変わるのですから、教えそのものによってマインドコントロールされることはなく、その人、人格に対するマインド・コントロールされると教えが絶対化され、心の自由を失ってしまうから怖いですね。
教えをいくら批判しても、「アンチは悪霊悪魔だ、アンチの言うことを聞き入れてはいけない」「もっともらしいことを言ってるけど、決して騙されないぞ!」となるので、
カルトやカルト的な人と話すと、問答集に従って話していて言葉が通じないことがほとんどですね。

あちこちの記事を読んで足跡コメントを残していますが、見過ごししてくださっていいですよ。
2019/1/31(木) 午後 0:02[ shalom ]



何といったらいいか、全部が全部そういうわけではないのだけど、信者さんのなかには、現実を教義に合わせて変換してしまう人がいるんですよね。

現実には、アンチにはいろいろな人がいて、いろいろな考え方があるわけだけど、そういう信者さんは、アンチが何を言っても、「アンチはこういう考えを持ち、こういうことを言うものだ」という教義に合わせて変えてしまう。
アンチの言葉をそのまま聞き、理解するのじゃなくて、必ずと言っていいほど、「アンチはこう言う」という教義に合わせて変えちゃう。これは本当にやっかいです。

最近は、「悪魔の論理との戦い方」という本が出たようで、信者ブログを読むと、悪魔が何を考え、どんな言葉で惑わしてくるか分かったというようなことを書いてたりするので、上の傾向はますます強まるのだろうなあ……。
2019/1/31(木) 午後 7:31[ 楽山 (自由) ]



んか、愚痴っぽくなってますね。失礼。
2019/1/31(木) 午後 7:32[ 楽山 (自由) ]



>あちこちの記事を読んで足跡コメントを残していますが、見過ごししてくださっていいですよ。

そう言ってもらえるとありがたいです。どうも。
2019/1/31(木) 午後 7:33[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん こんばんは

「アンチの言葉をそのまま聞き、理解するのじゃなくて、必ずと言っていいほど、「アンチはこう言う」という教義に合わせて変えちゃう。これは本当にやっかい」

ですからカルトなのですが、カルトは批判を胎盤として誕生しているのですから、カルトを正そうとして批判しても、「よく悪魔が何を考え、どんな言葉で惑わしてくるか分かったと・・上の傾向はますます強まるばかりになることが多いようです。そういうとき、イエスさまは私たちを“裁いてはならない、裁く(批判する)あなたも同じことをしている”という聖書の言葉(マタイ7章冒頭)の真実に向き合わせられたりすることがあります。批判している時の自分の姿って自分には見えない、気づきにくいですから、ついこちらもムキになったりしてしまうことがありますから。(◎_◎;)
2019/1/31(木) 午後 9:48[ shalom ]



自分の姿が見えず、むきになってしまうというのは、確かにありますね。
人を裁くな、立ち向かう人の心は鏡なり、人の心は変えられない、変えられるのは自分のこころだけ…戒め、教訓はたくさんあるけど、議論が白熱して、言い合いみたいになると、そういうことはつい忘れてしまうという。
そういや、スッタニパータにも論争から距離をおくべしというような話はありましたね。
2019/2/1(金) 午前 6:36[ 楽山 (自由) ]



> 自由さん おはようございます。

ぶろぐ「 釈迦仏教の根本思想について」のdyhさんによればッスッタニバータは仏陀の語った元の言葉であるということで、アートマンの存否については無記として、争いのもとになるから、一切議論しないと考えられていたようです。dyhさんは涅槃寂静?の体験をされ、一切の議論から退かれ3年ぐらいになるでしょうか。でもdyhさんの記事を読んでコメントすると丁寧にコメントされますね。
2019/2/1(金) 午前 9:20[ shalom ]



仏陀の根本仏教ではアートマンの存否について無記とし、死後の世界も無記、当然仏像信仰もなかったのでしょう。ひとりの人間の瞑想修行によって生老病死という四苦と愛する者との別れや、嫌な人に会わずにはいられないなどの八苦からの救いを修行によって悟りを得、涅槃寂静に至る出家修行仏教の小乗仏教か、またはアートマンであるアートマン?的な阿弥陀如来による本願成就による救いを信じる在家大衆救済大乗仏教に分かれているようですね。大乗仏教は長い歴史の中で仏典結集が繰り返される中で、仏陀の教えから離れ変遷を経て産みだされた仏教の新興宗教だったのかもしれませんね。今は真の仏陀による根本仏教はネパールやスリランカ(旧コロンボ)などのほかではほとんど残っていないとも言われているようです。
2019/2/1(金) 午前 9:23[ shalom ]



シャロームは、批判からカルトが出来るようなことを言っています。批判に何も答えることが出来ず、反論も弁明も出来ないものだから、シャロームは、自己正当化のために、批判が悪いということにしたいようです。

シャロームは、誰からも批判されず、好きなことを言い続けたいようですが、もうしそうなれば、キリスト教も、キリスト信仰も、救いも、シャロームの幼稚な妄想に付き合わされることになり、また、人間の、理性も、情性も、真実追求も、正義も、言論も、善いものは全部、妄想に取って代わられてしまいます。それは、人類の堕落と神への背きが支配する世界です。
2019/2/1(金) 午前 9:47st5402jp



何度でも言います。シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という言説が、妄想であることは明らかです。もしすべての人が信じたら、シャロームのように我欲のままに、嘘を吐き、偽善を働き、人を無視して、誰もが勝手なことして悔いないような破滅的な世界になります。シャロームは、自分が何を言っているのか、分からないようです。
2019/2/1(金) 午前 9:47st5402jp



またシャロームの詭弁です。批判は、カルトの偽善者であるシャロームに向けていますが、シャロームは、それを教えを批判していると言っています。このような、すり替えを平気でしてくるのが、シャロームです。したがって、言葉が通じないのは、シャロームのほうです。
2019/2/1(金) 午前 9:48st5402jp



カルトは、批判を胎盤とはしていません。カルトは、シャロームも含めて、自説絶対の訂正不能を胎盤として生まれ、正当な理路と情緒を滅ぼしてゆきます。そうして、シャロームは、自分で人間としての説明が出来ないものだから、先手のように、悪魔を登場させ、超常世界の妄想によって、それを批判者に向けて、正論を滅ぼしてゆく狙いのようです。
2019/2/1(金) 午前 9:48st5402jp



妄想と訂正不能にどっぷりとつかっているシャロームこそ、自分の姿が見えない、気づかないのです。それを、いかにも、自分が正論で柔和であるかのように見せかけるために、ムキになることを戒めていますが、シャロームは、向きになる代わりに、動じない信仰ではなく、不感不応の無視を生業として、自分が反論できないことの正当化をしているのです。
恐ろしい詭弁家がいたものです。これが、ずうっと、シャロームの生業なのです。
2019/2/1(金) 午前 9:49st5402jp



(自由さん)
自分の姿が見えず、むきになってしまうというのは、確かにありますね。

(私)
むきになって、心を乱すほうが、セメントのように無反応になって、代わりに「(笑い)」を入れるよりは、よっぽど、人間らしいと言えるでしょう。
2019/2/1(金) 午前 9:55st5402jp



(自由さん)
人を裁くな、立ち向かう人の心は鏡なり、人の心は変えられない、変えられるのは自分のこころだけ…戒め、教訓はたくさんあるけど、議論が白熱して、言い合いみたいになると、そういうことはつい忘れてしまうという。

(私)
議論は何のためにあるのでしょう。テーマについて掘り下げてゆくことで、是非、正邪、適否、善悪、そういったものを、人間として目一杯判断するための材料を提供するためです。「人の心は変えられない、変えられるのは自分のこころだけ」を前提にしてしまったら、現出するのは、何も変えられない世界、進歩も成長もなく、悪や偽善が好きなようにはびこる世界です。
2019/2/1(金) 午前 9:55st5402jp



ろくに議論も出来ず、反論の理路も持たず、妄想をごまかすためにだけ丁寧語を漁ってくるシャロームのような偽善者にとって、今回も、聖句「さばくな」の悪用によって従わせるような批判禁忌の不文律は、もはや武器となっています。まさに、批判禁忌は、キリスト教の先入観がが生んだ最悪の産物であります。
2019/2/1(金) 午前 9:56st5402jp



上でスッタニパータに振れたので、一応、見返してみたけど、「論争をしてはならない」としてますね。部分を切り取って読むのはダメだろうけど、他の箇所を読んでも論争を奨励してるという感じはしないですね。

>895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

>896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
2019/2/1(金) 午後 7:59[ 楽山 (自由) ]



私を偏見だと言って、シャロームの偏見を見逃している。なぜかと言えば、シャロームは世辞を言うので楽だから。
2019/2/2(土) 午前 5:53st5402jp



私は、シャロームのような偽善者にとって迷惑で有害だろう。シャロームは、全てのキリスト者にとって、気づかれにくく、迷惑で有害だ。
闘わない者は、平和を造れない。闘いを否定する者は、他者の犠牲と死を、かわいそうに、と言いながら放置する。
偽善者らしくなってきたようです。
2019/2/2(土) 午前 5:56st5402jp



あなたは、アドラーからも、スッパ何某からも、楽になるようなことだけを学んできたように思われる。あなたは楽になり、気づかないうちに、誰かが苦しむだろう。真実の追求を止めて、自己の安寧に走っている姿。
2019/2/2(土) 午前 6:00st5402jp