*後期
「洗足式」のコメント欄からのコピペです。
ここでも、shalom氏と楽山とが話しているところに、st氏が突然、噛み付いてくるというパターンになっています。
ここでも、shalom氏と楽山とが話しているところに、st氏が突然、噛み付いてくるというパターンになっています。
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楽山さん こんばんは
カトリック教会では教会の公式な典礼として洗足式を受け継いでいるのかなと思いますが、プロテスタント教会では教派によって、教会によって異なり少ないかもしれません。プロテスタント教会では洗礼式(バプテスマ)と聖餐式を受け継いでいます。
聖餐式はイエスさまの死を記念するために、流された血を葡萄酒とし、ささげられた体をパンとして飲食し、その死により成就された罪のあがない与るために、公けに信仰告白し、記念として引き継がれている式ですね。
洗礼式はイエスさまの死による罪のあがないに与るために、罪の告白をして、イエスさまととも死んで、またイエスさまと共によみがえりの命に与ることを表わす信仰を告白し、キリストのからだである教会につながる式ですね。
神による救いの御業の成就と信仰告白するキリスト教会の礎ですね。
2019/2/6(水) 午後 9:27[ shalom ]
そこのところは、自分はいわゆるノンクリのせいか、どうもよく分からないところですね…。洗足式は普通に感動できるけど、聖餐式というのはよく分からない。
2019/2/7(木) 午後 7:25[ 楽山 (自由) ]
> 楽山 (自由)さん こんばんは
同じ人の言葉を3人で聞いても、
3人が同じ理解だというわけではありません。
聖書の言葉もそうですね。
同じ聖書を読んでも読む人によって理解に違いがあるのは
そのためですね。
信じる対象である神仏との関係、交わりがあるなしによって異なり、その人や頭の良しとも関係ありませんね。
宗教には普通、基本教理がありますが、
ないのは因習だったり、迷信でしょうね。
日本は仏教、神道だけで全人口をはるかに超える信徒数だといわれていますし、自分の信じる宗教の教理を知らない人が圧倒的ではないでしょうか。習俗化、迷信化しているといえるかもしれませんね。
2019/2/7(木) 午後 9:30[ shalom ]
> 楽山 (自由)さん
・“神”のつもりか安倍首相「森羅万象すべて担当」発言の仰天
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/247063
「私は森羅万象を担当している」──予算委員会での安倍首相の発言が話題です。これまでも国会で「私は立法府の長」と誤った認識を披露してきましたが、いつの間にか“昇格”していたようです。
日本という国の精神風土、宗教的痴呆の実態を表わしていますね。
2019/2/7(木) 午後 9:39[ shalom ]
記事、読みました。安倍さんのことば選び、表現はよくないけど、この記事もあんまりよくないと思います。
ネット上で、「安倍ゼウス!」「現人神宣言」とふざけるのはいいとして、それに乗っかって書くのはいかがなものか。マスコミもいろいろで、匿名ネットと同じようなノリのところがあってもいいのかもしれないけど。
2019/2/9(土) 午前 8:16[ 楽山 (自由) ]
他ブログで読んだけど、聖餐式で、ぶどう酒を省略してる教会もあるそうですね。
儀式の簡略化は、いろいろなところで進んでるということか。
自分の周囲では、観光に都合いいようにお祭りの日にちが変えられたり、法事が足がしびれる間もなく、すぐに終わったりしてるけど、キリスト教でもそういう流れなのか…。
2019/2/9(土) 午前 8:35[ 楽山 (自由) ]
> 楽山 (自由)さん
私もあまりにあきれ果ててしまい、つい乗せられてしまいました。すみません。でも、このような取り上げ方で事柄を矮小化してしまい、問題を見えなくすることこそ問題の本質という気もします。
矮小化とは起こっている事柄をそのまま伝えないこと、問題を矮小化する・ 問題を歪める ・ 問題を歪曲する ・ 問題をすり替える ・ 問題をごまかす.
2019/2/9(土) 午前 9:20[ shalom ]
> 楽山 (自由)さん
「聖餐式で、ぶどう酒を省略してる教会もあるそうですね。
儀式の簡略化は、いろいろなところで進んでるということか。
自分の周囲では、観光に都合いいようにお祭りの日にちが変えられたり、法事が足がしびれる間もなく、すぐに終わったりしてるけど、キリスト教でもそういう流れなのか…」
確かに、省略、簡略、都合に合わせるなど、宗教的な儀式、伝統的な因襲、習俗、迷信など、価値観など生活のあらゆる分野で、その時代や人の都合で変えられているようです。
今私の机に山本七平著の「受容と排除の軌跡」という本があります。進化論ではありませんが、生きるための知恵ではあるでしょうが、日本ほど受容と排除と同化をして、流れに適応している国は稀でしょう。行き詰まり、閉塞状況にあるようですが。
そういう流れによって、事柄の本質の矮小化が起こり、その本来の重要な意味が見失われてしまうことが問題ですが、すべてが人の都合第一というのがこの世のありようですから、状況倫理によって、安易なすり替えがなされる風潮はますます止まることができないのでしょう。
2019/2/9(土) 午前 9:56[ shalom ]
>山本七平著の「受容と排除の軌跡」
これは面白そうですね。必読手帳にメモしときます。
山本七平の本は、イザヤベンダサン名義の本だったかで、どうも自分は日本教徒らしいと思ったことが、今でも強く記憶に残ってます。
2019/2/9(土) 午後 0:05[ 楽山 (自由) ]
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「日本人とユダヤ人」という本の著者はイザヤベンダサンですが、それは山本七平だと言われましたね。
私も読みました。
wikiには「山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。」
と書いてありますが、
私もかなり的を得た指摘だと感じていますが、その狂気の沙汰ではないことがわが身に起こっているのですから、例外のある外れともいえるようですね。とは言え、私のなかにも日本教が生きていることはたしかに感じますね。アハハ
「どうも自分は日本教徒らしいと思ったことが、今でも強く記憶に残ってます。」
そうですか。
中和、中庸、和を以て貴しと為すはとても平和的ですが、私はそうばかりではなさそうだと感じていますがね。(笑)
2019/2/9(土) 午後 1:09[ shalom ]
> 楽山 (自由)さん
山本七平著の「受容と排除の軌跡」は主婦の友社(今もあります?)TOMO選書です。昭和53年出版。当時700円。
2019/2/9(土) 午後 1:12[ shalom ]
タイトルは失念しましたが、山本七平(イザヤ・ベンダサン)の本で、ハビヤンというキリシタンのことを書いたものがあったかと思います。
ハビヤンは、仏教→キリスト教→儒教という風に宗教を変えるけれども、その実ハビヤン自体は少しも変わらないままだとかそういう話。
自分の場合も、心の糧になるのであれば、仏教、キリスト教、儒教、その他なんでもござれだけども、特定の宗教思想だけに染まり、他に移動しないということは無理のようなので、ハビヤンと同じだなあと思った次第です。
2019/2/9(土) 午後 2:04[ 楽山 (自由) ]
HSでは、棄教して退会すると、退転したとして見下げられたりもするわけですが、自分としては退会しても退転したとか、脱落したという感覚はなくて、むしろ道に踏みとどまることができたという満足感さえあったのだけど、どうもそれは日本教徒だったからかもしれません。
心の糧になるならHSを続けるけれども、そうでないなら止めるのが当たり前と。
むかしむかし、テレビで、小澤さんというHS幹部が、大川隆法が正しいなら信仰するけど、間違ってると思ったら止めますというようなことを豪語してたことがあったけど、この方もハビヤン的なところがあったのかもしれません。ちなみにこの方は、現在はクリスチャンになったという話ですから、創価→幸福→キリスト教という流れですね。
2019/2/9(土) 午後 2:06[ 楽山 (自由) ]
> 楽山 (自由)さん
「小澤さんというHS幹部」は「創価学会の幹部」ではありませんか。
私はある教会で小沢さんの話を聞いたことがあり、集会のあと個人的にも話をしたことがあります。小澤利夫さんという方で、名刺も残っていますよ。
イエスさまはキリスト教という宗教の教祖と祀り上げられてはいますが、決してキリスト教の教祖ではありません。
ひょっとしたら、欧米キリスト教諸国、キリスト教会にも十字架につけられているといえるかもしれません。
神による選民であるユダヤ人、当時の異邦人世界であるローマに捨てられ、神を汚す罪人として十字架に釘付けられた方ですが、いまもそれは変わっていないと思います。人類史上自由さにおいてイエスのような方は一人もいないと思います。
2019/2/9(土) 午後 3:07[ shalom ]
> 楽山 (自由)さん
ファビアンという人物ですね。
生涯についてwikiには次のように書かれています。
1565年(永禄8年)、加賀国または越中国にて誕生。母のジョアンナは北政所(おね、高台院)の侍女となった。始めは大徳寺の禅僧となり、恵俊または恵春と称したとされる。
1583年(天正11年)、京都で母とともに受洗。高槻、大坂のセミナリヨで学び、1586年(天正14年)にイエズス会に入会して修道士となった。豊臣秀吉のバテレン追放令を逃れて山口、長崎、加津佐などを経て、天草のコレジオで日本語を教える傍ら、同地で『天草本平家物語』を編纂した。また自身の経験により『仏法』を著し、これより後はキリスト教を擁護し、仏教を批判する論陣を張った。1603年(慶長8年)に京都に戻ると、1605年(慶長10年)、護教論書『妙貞問答』を著す。本書は、2人の尼の対話形式で記され、キリシタンである幽貞が神道・儒教・仏教を批判し、キリスト教の教理を説いて妙秀を入信に導くという内容[3]。1606年(慶長11年)には林羅山と論争し、当時支持されつつあった地球球体説と地動説を主張した。
2019/2/9(土) 午後 3:22[ shalom ]
ところが1608年(慶長13年)、外国人長上者への反発の末に修道女と駆け落ちして棄教し、1614年(慶長19年)には長崎でキリシタン迫害に協力するに至った。晩年の1620年(元和6年)にはキリスト教批判書『破提宇子』(は・だいうす:デウスを破却する意)を著した。
1621年(元和7年)、死去。
2019/2/9(土) 午後 3:23[ shalom ]
はっきり申し上げますが、罪の告白を、シャロームはしていません。したがって、信仰告白もしていません。キリストにつながっていません。神による救いの御業の成就と信仰告白するのは、キリスト者であることのあかしです。教会での洗礼という儀式に、過剰な神秘性を与えるのは、シャロームのような偽キリスト者やカルトを思えば、危険です。
2019/2/11(月) 午前 7:47st5402jp
(シャローム)
同じ人の言葉を3人で聞いても、
3人が同じ理解だというわけではありません。
(私)
人間なら、それが当たり前です。だから、議論が必要なのに、シャロームは、自説に固執して、人の言うことを受け取ることがありません。
2019/2/11(月) 午前 7:47st5402jp
(シャローム)
聖書の言葉もそうですね。
同じ聖書を読んでも読む人によって理解に違いがあるのは
そのためですね。
信じる対象である神仏との関係、交わりがあるなしによって異なり、その人や頭の良しとも関係ありませんね。
(私)
キリスト信仰には、これがなければキリスト信仰ではない、ということが当然あります。それが、罪の告白と、悔い改めです。聖書の言葉もそうですねとシャロームは言って、またしても、人それぞれを正当化するつもりのようですが、シャロームの人それぞれは、もはや信仰ではないのです。
2019/2/11(月) 午前 7:47st5402jp
おかしいことを言っています。日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることを、狂気の沙汰ではないというのでしょうか。シャロームは、日本教が生きていると言って、笑っています。これがシャロームの状態です。何を話しても、笑いながら、ピンとをずらしてゆくのです。それを感知できないで、真に受けて、話を続けている人もいて、シャロームを、いい気にさせています。
2019/2/11(月) 午前 7:48st5402jp
(シャローム)
イエスさまはキリスト教という宗教の教祖と祀り上げられてはいますが、決してキリスト教の教祖ではありません。
ひょっとしたら、欧米キリスト教諸国、キリスト教会にも十字架につけられているといえるかもしれません。
神による選民であるユダヤ人、当時の異邦人世界であるローマに捨てられ、神を汚す罪人として十字架に釘付けられた方ですが、いまもそれは変わっていないと思います。人類史上自由さにおいてイエスのような方は一人もいないと思います。
2019/2/9(土) 午後 3:07 [ shalom ] 返信する
(私)
シャロームは、キリストが、キリスト教の教祖ではないと言っています。それは、シャロームのような偽信仰において起こっていることです。
2019/2/11(月) 午前 7:49st5402jp
キリストのような御方が一人もいないのは当たり前です。キリスト者のためだけでなく、まさに、背教者や、偽善者、キリストの名を唱えるカルト、そして典型的にシャロームによって、キリストは、今も十字架にかかり続けているのです。それでも、悔い改めない者がいて、その典型がシャロームです。
2019/2/11(月) 午前 7:52st5402jp