*つづき
前記事のつづきです。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 「関わることはないと…そうですか。それも仕方ないですね。余計なこと言ってしまったようで失礼しました。」
少しも余計なことではありません。
とても大事なことです。でも私たちは神に赦され、愛されていることを頭で知っても、心に届かない現実があります。そのために人を赦し愛することができないことも事実なのです。その力が自分自身のうちにないのです。それでは神様からどんなに赦され愛されていると信じても無意味な虚しいことでしかないではありませんかと思うのも当然です。ですから信仰をもつと互いに赦し合い、愛し合おうと努力をするのです。
2019/2/26(火) 午後 11:29 [ shalom ]
しかし、疲れてしまうのです。そして疲れると、自分は神に赦され愛されていると信じていると言いながら、人を赦し愛し、ありのままで受け容れ仲直りをすることもできない、私の信仰は偽りだ。あの人の信仰は偽りだと自分を裁き、互いに裁きあうようになってしまい、その結果、信仰を失ってしまことが多いのです。
何が問題かというと、神との和解、仲直りは信じて、神さまはこんな私をありのままで赦し愛しておられると信じながらも、自分自身との和解、仲直りができないと、神さまの赦しと愛が他の人へと流れることができないのです。なぜ神さまの赦しと愛を信じているのに、他の人を赦し愛することができないかの理由は自分を赦し愛し、自分をありのままで受け容れることができないからのようです。自分で自分を赦し愛し、受け容れるなんておかしいと思われるかもしれませんが、自他未分化状態ではこの気づきがとても難しいのです。それが例えば、投影というような様々な自己防衛機制となって表れるのです。このことに気づくのはそう簡単なことではないようです。
2019/2/26(火) 午後 11:30 [ shalom ]
ですから人と人との和解、仲直りは人が作り出すことではなく、神の御業なのです。神のみわざが私たち間で和解、仲直りを生み出すのは、初めに神との和解に始まり、その次に神を信じた人とその人自身との関係が和解し、仲直りする必要があるのです。
そうして初めて神の赦しと愛が信じる人をとおして他の人に流れていくのです。とても回りくどい言葉を羅列していますが、
このことが分からないために、多くのクリスチャンの人が信仰生活に疲れて信仰を失ったり、教会に混乱、分裂が起こったり、異端に走ったり、挫折し、教会から離れてしまわれるのです。
私もその一人で、そのことが分からず随分回り道をし、自分だけではなく、多くの人を傷つけました。そのことを気付いた今でも他人事ではないのです。なぜ自分のことで悩んだり、他の人との関係で悩んだりするのか、その原因は他の人にあるのではなく、自分自身と和解できないことに原因があることが多いようです。それを私たちは自分に向けたり、他の人に向けてしまうことで苦しんでいるのです。
2019/2/26(火) 午後 11:31 [ shalom ]
私たちの心のからくりを解きほぐし、自由にしてくださるのは神の赦しと愛による他できないことだと痛感させられます。
私が
「stさんとの対話が無理なように、きっと仲直りも難しいと思います。仲直りを望まれて断る理由はありませんが、stさんの病的体質が変わることは難しいでしょうから、関わることはないと思います。」と書いたのはstさんと自由さんに謝罪し、撤回し、削除すべきだと思います。
stさんの病的体質が変わることは難しいと書きましたが、それはstさんだけではなく、私自身のうちにもあることです。それは私と他の人との和解、仲直りを妨げている障害は私という自分と自分自身との和解、仲直りができていないことにあり、自分との和解を妨げている病的体質の気づきの難しさだということです。
このことを抜きにして私たちがどんなに仲直りをしようとしてもそれは出来ないと思うのです。
私の思いをつたない言葉と文字で書きあらわすのは難しいのですが、少しでも伝えることができればうれしいです。
2019/2/27(水) 午前 7:51 [ shalom ]
おはようございます。
「日本教の社会学」の一章をまだ読み終わってはいませんが、
日本教の問題点について触れられ、嫌な言葉ですが、「日本人にはわからない」と繰り返されていることを不快に感じながらお気づきだと思います。私が書いていることが日本教、日本教キリスト派の核心だと思いますがどうでしょうか。私もまた日本教キリスト派のひとりにほかなりません。そこから解放し、自由を与え、名実ともにイエスキリストにある神の子としてくださり、その完成に向かって助け、導いておられる方がイエス様であることを信じていますが、私たちのこの世における人生はその旅路の道程だと思います。
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
(新約・ガラテヤ人への手紙5章13~17節)
2019/2/27(水) 午前 8:44 [ shalom ]
5:23 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
5:24 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
(新約・第一テサロニケ人への手紙5章23,24節)
2019/2/27(水) 午前 8:45 [ shalom ]
こんばんは。
難しい文章ですけど、ありのままの自分を受け入れることが、他と良好な関係を築くことにつながるというのは分かる気はします。
思い返してみれば、自分の場合も、ありのままの自分を受け入れるに従って、喧々諤々の議論をすることもなくなってきたと思うので。
2019/2/27(水) 午後 7:52 [ 楽山 (自由) ]
>削除すべきだと思います。
すいません。確認ですけど、「2019/2/26(火) 午前 10:10」の削除依頼と受け止めましたけど、それでよろしいでしょうか。
2019/2/27(水) 午後 7:53 [ 楽山 (自由) ]
楽山(自由)さん こんばんは
「2019/2/26(火) 午前 10:10」の最後の私のstさんとの関わりについてのコメントは間違いであることを謝罪と撤回をしたうえで、そのあと私の考えを書きましたので削除せずにそのまま残してもいいのかなと思っています。
私はだれとの関わりについても言えますが、連れ合いや家族関係も含めて自他未分化を前提としたような関わりに対しては程良い間を取り、互いに自立したありのままのひとりの人として尊重し合い、基本的には不即不離でありたいと考えています。
shalom!
2019/2/27(水) 午後 9:48 [ shalom ]
> shalomさん
了解しました!
では、コメントは削除せず、そのままにします。
「人間関係 距離感」については、検索したら、こんなのが出てきました。
・人間関係でちょうどいい距離感を保つには、自分のクセに気づくこと
https://sararitositamainiti.com/how-distance/
・親しい人間関係の適度な距離感…友だち・親友・恋人も
https://allabout.co.jp/gm/gc/371259/
2019/2/28(木) 午前 6:53 [ 楽山 (自由) ]
自他未分化では、ずいぶん前に聞いたジョークを思い出してしまった。
A「自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけない。自分がされて嬉しいことは他人にもしてあげなさい」
B「そんなこと言ったって、相手も自分と同じ趣味とは限らないじゃん」
2019/2/28(木) 午前 6:55 [ 楽山 (自由) ]
〈注 対話はここで一段落していますが、この数カ月後、st氏が以下のコメントを書き込んでいます。st氏の方が議論を放棄して遁走し、ほとぼりが冷めた頃にこっそり書き込みに来ているのに、なぜかこちらの方がコソコソ隠れて悪口を書いていたことにされています。 楽山 2022.3.4〉
面と向かって、直接言わず、こんなところに書いているのは、言いがかりに過ぎない証拠。息子への断ちがたい愛と、ゆるす行為を、混同している。こういうことで、悔い改めないシャロームが何をやっても赦されるという妄想に同調したから、楽山は、汚い人として、シャロームの仲間として、批判対象となった。今も、これも、汚いと思う。
2019/7/25(木) 午前 3:46 st5402jp
父は、愛ある人のようだが、楽山は、それに乗じて、殺しても、それより先に赦していると、赦しというものをシャロームの都合に合わせている。楽山は、人間の気持ちが、まるで分らない人。ゆえに、この話が聖書に乗っているということに思いが至らない人。それは、丁寧なだけの深みのない話として、随所に表れてきた。
2019/7/25(木) 午前 3:47 st5402jp
どこまでも、心を思わず、言葉面を追うだけで、主張する楽山。
父は神のたとえ、子は私たちのたとえ、楽山は、シャロームが父を殺してゆくのに、味方をしているようなもの。言い逃れしかできない者。案じている愛と、赦しは別。赦しは、神事として、たとえられていることを想像できない楽山は、聖書を読んだことにならない。これからずっと黙ってほしい。
2019/7/25(木) 午前 3:47 st5402jp
(私)
にもかかわらず、シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されると言って、はばからない。楽山の狂言は、心が無いので、それになびく。
(私)
息子が、悔い改めないならば、そのことは、そのうち知られ、もし仮に父が赦せば、いかなる悪事でも赦されることになる。このことに気づかないのがシャロームと楽山の情緒と理路の腐敗である。いくら詭弁を弄しても同じだ。楽山は、難癖をつけるだけで、良識のない、思っていた以上の無知で非常識。
2019/7/25(木) 午前 3:48 st5402jp
(楽山)
stさんは、人の心を悪く想像し、その意見を歪曲して非難するということを繰り返してます。気をつけてください。
2019/2/26(火) 午前 6:02 [ 楽山 (自由) ]
(私)
楽山は、シャロームの心を良いほうにばかり解釈し、その良識を曲げて、かばうということを繰り返している腐った思想の持ち主。気をつけて、というより、罠に嵌らないように近づかないでください。
2019/7/25(木) 午前 3:50 st5402jp
(私)
いつの発言を言ったのだろう。恐らく、厳しく言ったことを言っているのだろう。楽山の、やさしい言葉で操ったり、揶揄したりするよりは、はるかにマシと思うが、やさしいだけで、気に入って従う者もいるんだろうという状況だ。
(私)
3者の成りすましを疑っているからだ。今は、Mineを加えて4者となる。おかしなことを言う。易坊は、私のブログを荒らした50~100コメ以上の張本人だ。むやみに問い詰めを繰り返すことで、もたらされる疲労は繰り返さない。あとで、易坊が来たときには、一貫して去れと言い続けた。楽山のブログにピタリと来なくなったのは、楽山が、全く中立ではなく、シャロームの味方をして、その仲間だとバレた時です。
2019/7/25(木) 午前 3:51 st5402jp