*末期
以下は、「神義論って難しい…。」のコメント欄からのコピペです。
これについては、ヤフーブログから当該ブログに移動させてなかったようですが、PCには保存してあったのでここに貼っておきます。
また、st氏は「資料集(13_6)」で楽山ブログから退出したばかり思っていましたが、ここで舞い戻ってきていました。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 楽山さん
「神義論って難しい」
それはそうでしょう。
神は「ありてあるもの」人は「ありてなきもの」
神は永遠不変の自存者。人は有限で、死すべき依存者。
人は限りある、相対的な知性、理性的存在なのでですから。
2019/7/20(土) 午前 9:35[ shalom ]
そう、、
神様のことを考えると、
結局さいごは
「分からない」ということになるみたいですね。
2019/7/20(土) 午後 0:08[ 楽山 (自由) ]
おはようございます。
私はこの世全体が悪であるとは思いません。
むしろ人間が居る所だけ、しかも人間の自己愛がある所だけに悪があると思います。
それ故、悪は人間が持つ自由意志の誤用が原因だと思います。
しかし、人間が自由意志を正しく用いれば善を現すことも出来ると思います。
人間から自由意志を取り上げれば悪は無くなりますが、同時に、善を現すことも出来なくなり創造の目的が崩壊します。
2019/7/21(日) 午前 6:24[ インターネット新教会 ]
おはようございます。
自分の身の回りの出来事などを念頭においた場合は、ご意見は理解できるように思います。でも大きな事件などを思うと、やはり疑問を感じずにはいられなくなるのが辛いところです。これほどの犠牲を払ってでも、達成しなければならない目的とは一体何なのだろうとか。
2019/7/21(日) 午前 8:12[ 楽山 (自由) ]
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「そう、、神は分からない」
同感です・・・が、私は信じています!
その神は三位一体だといわれています。
三位一体聖書全体をよく読むとそうであることがわかります。
でも三位一体なんておかしい、理解できない…わからない、信じられません。それは神義も同じく三位一体なのです。
神の義も神と同じく三位一体だからです。
神の聖と愛と義と三位一体なのです。
このことも限りある、相対的な人間の知性、理性、経験によって理解できませんから、理解できず、分からなくなるのです。
ですよね。人間の限りある、相対的な理性や知性、経験を超えていますのでわからないのは当たり前です。
それでは信じるなんておかしいことではないですかとなります。
ですからパウロがアテネで話した言葉を聞いた人である人はあざ笑い、ある人パウロの同じ言葉を聞いて信じたのです。
不思議ですね。
2019/7/21(日) 午後 0:15[ shalom ]
信じた人にも、信じなかった人にもパウロの言葉は同じなのに。
同じ日本人なのに、同じ聖書の言葉を聞いて、今も、
ある人は信じ、ある人はあざけり、信じないのです。
それは世界中どこに行っても同じことが昔も今も起こっています。
この違いの理由はなにか、どこにあるのでしょうか?
それについても聖書に書かれています。
やはり聖書全体を読むとわかるのですが、どんなに鋭利な知性や理性、豊富な経験という鋭利なメスを使って分析しても、わからず、信じられないことでもあります。
はぁ?それも不思議、不可解なことですね。
ですから聖書で証しされている神は「その名は不思議」と書かれているのです。
この謎を解ける人は一人もいないのです。
神のみができることのです。
2019/7/21(日) 午後 0:26[ shalom ]
ですから聖書には、それは誰も信仰を誇ることがないため、
誇るものは神を誇れと聖書には書いてあります。
伝道は人が自分の信仰を誇るためにではなく、神を誇ることなのです。それは人が礼拝者として神の命の息吹を吹き込まれ生かされ、愛されているからなのです。
ですから、信仰についての必要不可欠なことがらは
きっと神の言葉である聖書には書かれているのだと思います。
そのことも聖書にかかれています。
2019/7/21(日) 午後 0:27[ shalom ]
> インターネット新教会さん
「人間が自由意志を正しく用いれば善を現すことも出来る」
人間が自由意志を正しく用いる・・ことが出来ない、という自覚が、信仰の始まりだと思います。
自由意志、即ち、神が与えたものの中には、罪性だけでなく、良心という優れたものがあり、それによって、人間は、神の言葉に反応して、信仰に導かれるのだろうと思います。
シャロームと楽山は、その良心を無にしている偽善者です。だから、答えることが出来ていません。
2019/7/21(日) 午後 0:30st5402jp
「これほどの犠牲を払ってでも、達成しなければならない目的とは一体何なのだろうとか」
このように、楽山は、歴史と社会の悲劇をあげて、答えられないことをもって、神を否定したいだけのです。神に希望を置いていない者たち、楽山と偽キリスト者シャロームは、実に気楽に神を否定したり、実に安易に神を讃美しまくるのです。私としては、この疑問を考えるたびに、救いは地上だけのものではないのだろう、という想いをいだきます。
2019/7/21(日) 午後 0:36st5402jp
>
> 楽山 (自由)さん おはようございます
「そう、、神は分からない」
同感です・・・が、私は信じています!
その神は三位一体だといわれています。
三位一体聖書全体をよく読むとそうであることがわかります。
<
シャロームは何も分かっていない偽善者です。三位一体も理解せず、後にあるように口から出まかせを言っているだけです。何も説明できない人です。なのに、何でもわかっているように見せかけます。
2019/7/21(日) 午後 0:43st5402jp
>
でも三位一体なんておかしい、理解できない…わからない、信じられません。それは神義も同じく三位一体なのです。
神の義も神と同じく三位一体だからです。
神の聖と愛と義と三位一体なのです。
<
(私)
このように、シャロームは、言い張りの果てに、滅裂になるだけなのです。これは共感ではありません。ただの滅裂です。
2019/7/21(日) 午後 0:47st5402jp
>
このことも限りある、相対的な人間の知性、理性、経験によって理解できませんから、理解できず、分からなくなるのです。
ですよね。人間の限りある、相対的な理性や知性、経験を超えていますのでわからないのは当たり前です。
それでは信じるなんておかしいことではないですかとなります。
ですからパウロがアテネで話した言葉を聞いた人である人はあざ笑い、ある人パウロの同じ言葉を聞いて信じたのです。
不思議ですね。
2019/7/21(日) 午後 0:15[ shalom ]返信する
<
(私)
分かっていないから不思議で終わらせます。
2019/7/21(日) 午後 0:47st5402jp
(私)
「この謎を解ける人は一人もいないのです。神のみができることのです。」
しかし、シャロームは、わかっている、というスタンスでしか語ってこなかったのです。神のみができる、白々しい発言です。神の啓示と聖霊の導きを根拠として、議論の対象にならないと、自らの正当性を語ったのは、シャロームその人であります。
分からないならば、「その名は不思議」は、人の主張になりません。シャロームは、この言葉をブログのタイトルにして、人を惑わしてきた偽伝道者です。自分信仰の権化なのです。
2019/7/21(日) 午後 1:07st5402jp
白々しくも、シャロームは、人の言うことを聞かず、理解も出来ず、自分の信仰を誇ってきたのです。
「神の命の息吹を吹き込まれ生かされ、愛されているからなのです。」
神に愛されていることを知る物は、神の前に嘘は吐きません。しかし、シャロームは、数えきれないほどの嘘を吐いてきました。しかも罪悪感を感じない人です。
私のコメントを削除するなど、聖書に書かれていることを、一言でも受け取っていたら、こうはならないという堕落を、まるで悪い見本のようにあらわしてきたのが、シャロームなのです。
2019/7/21(日) 午後 1:13st5402jp
敬虔の本質がここにあります。
人間に正しさが分かるような神ならば、それは神ではないのです。
人間は、神の正しさは分かりません。人間は、人間の正しさを求めるのみです。
ゆえに、赦しの祈りが必要になります。私たち信仰者は、判断し実行し、結果によって叩かれ、祈り、悔い改めて、学習し成長します。
2019/7/21(日) 午後 1:23st5402jp
神様は、私たちが、正しくないところを、既にご存知です。
ゆえに、正直に祈ることによる信仰の道を用意してくださったのだろうと思います。
2019/7/21(日) 午後 1:32st5402jp
>ですから聖書には、それは誰も信仰を誇ることがないため、
誇るものは神を誇れと聖書には書いてあります。
前に、聖書についての本を読んだ時に、
聖書のなかに、矛盾した記述があるのは、
自分を誇れなくさせるためだとあったのを思い出しました。
解釈が一つであれば、自分は律法を守ったと誇る者が出るかもしれないが、
解釈がいろいろ成立しうるなら、そう単純には、自分は律法を守ったと誇れなくなると…。
私はこれを読んで、意図的に矛盾を入れてるなら、
矛盾点があると批判したところでしょうがないなと思い、
そういうところはさほど気にしなくなったのでした…。
2019/7/21(日) 午後 7:09[ 楽山 (自由) ]
> 楽山 (自由)さん こんばんは
「解釈がいろいろ成立しうるなら、そう単純には、自分は律法を守ったと誇れなくなると…。
私はこれを読んで、意図的に矛盾を入れてるなら、
矛盾点があると批判したところでしょうがないなと思い、
そういうところはさほど気にしなくなったのでした…。」
自由さんらしい、物事を一方的に、一面的に決めつけないで、
何もかも相対化すること、それが人間の有限性と相対性であることからすれば、たしかに人として一番良心的だと思われますね。
私の場合はしばらくどうしてだろうと戸惑いましたが、神という方は人としては矛盾をそのまま受け容れることのできないけれど、人の良し悪しの判断を越えた、常にすべてのことを善にして善をすることのできる方である統合者である方だという信仰を与えられる体験をしました。人の知性や理性を越えたむずかしい神は三位一体や神義論に対する神からの答えだとも思われました。
2019/7/21(日) 午後 8:10[ shalom ]
それは聖書のはじめに記されている天地創造についての聖書の言葉を読み、神は神の目でご覧になられ、すべてを良しとされた万物を創造された後で、人を神のかたちに似せてつくり、神のいのちの息吹を人に吹き込み、生きたものとし、すべてを統べ治めるように与えられたが、そのあとで、
ただ善悪を知る木の実だけは食べてはなりません。それを食べると死ぬと言われた意味も心にすとんと受け容れることができるようになりました。
善悪を知る木の実を食べて生きると人は誰でも、有限で、相対的であるにも関わらず、自分お目でm手正しいと思われる善悪の善悪の基準によって、すべての物事を統べ治めるようになり、そのために、すべてのことに矛盾に直面してしまい、自己義認の罠に嵌まり、自分を義としはじめ、たがいに裁きあい、受け容れあうことができなくなり、争いに支配されてしまうということも
、あ、そうなんだと聖書の罪という言葉の意味も人の言葉や理屈を超えたこととしてわからされたように感じましたね。
2019/7/21(日) 午後 8:11[ shalom ]