溝部脩『聖霊の息吹を受けて』

*二冊目
 『聖霊の息吹を受けて』読了。司教の説教集を読んだのは、これで二冊目だけども、今回もとても勉強になった。感謝。
 以下に、特に心に残った部分についてメモしておきたい。


*キリシタン
 まず一つはキリシタンの歴史である。本書ではイエズス会とフランシスコ会の考え方の違いが説明されており、さらにそれが殉教にどう影響したかも触れられている。
 自分のような外部の人間には、キリシタンはキリシタンであって、その中の考え方の違いは分かりにくいのだが、本書の説明を読んでおぼろげながらも理解できたように思う。


*尊さ
 もう一つは、「助祭叙階式説教」である。ここでは助祭としての心構えが説かれているのだが、これを読むと自分が叙階されるわけでもないのに、なぜか背筋を伸ばさないではいられない心持ちがした。また助祭を心から尊敬したくもなる。このような決意をしている助祭は尊く、まさしく聖職者だと。


*祈り
 三つ目は祈りについてである。キリスト教には、よく祈るイメージがあるが、こういう文章を読むと、その理由が分かる気がする。
自分の一番大切なものを、人のために、苦しんでいる人のために捧げようとする、この大きな愛、これが神様の愛なのです。その愛が分からなければ、その愛に到達しなければ、救いはないのです。

(『精霊の息吹を受けて 溝部司教説教集』溝部脩著、サンパウロ、2005年、p.232)
私たちの中に働き、私たちを力づけ、活気づけてくれる、神の霊があって初めて人のために生きる愛ということに目覚めてきます。

(同上、p.232)
「イエス・キリストの恵み」、それは愛することを学ぶ、「愛する生き方をする」、それができるために、聖霊の助けを求める、これです。

(同上、p.233)
私の心の傷を担い、取り去ってくださるのは、主だけです。罪とは自分の力でそれを何とかしようとする、これが不信仰であり、罪なのです。

(同上、p.168)
 キリストの生涯と十字架の意味を知り、信じるには聖霊の助けがあり、自分で自分を救おう、救えるというのは思い上がりだということなのだろうか。こういう考え方なら、よく祈る理由も合点が行くというものである。
 一方、自分はどうかといえば、「自分を救えるのは自分だけである」「心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん」という考え方が心に染み付いていたせいか他力信仰は間違いだと思っていたのだが、どうも最近は自分には宗教の初歩的な戒律さえも全然守れないことが分かってきたせいか、上のような考えの方に理あると感ずるようになってきている。我ながら変われば変わるものだと思う。