『新版 幸福を招く365章』谷口雅春著

*元気が出る本
 谷口雅春の著作は、読みはじめはあまりにも極論すぎるようで抵抗を感じるが、それにかまわず読みすすめていると段々と気持ちが前向きになり、元気が出てくるから愉快である。本書もその例外ではない。谷口雅治の著作の魅力は多々あれども、自分にとってはこの点が第一である。
 以下に、本書中で特に印象深かった箇所をメモしておきたい。


*ひかりを灯せば…
光に向かえば暗が消えるが如く、わが心ひとたび神に振向きたる瞬間に、すべての疑いも、不安も、不信も、恐怖も、消え失せたのである。

(『新版 幸福を招く365章』谷口雅春著、日本教文社、令和2年、p.204)
 前々から、「ひかりを灯せば、闇は消える」という言葉がすきなのだが、これも同趣旨の言葉のようだ。まさにその通りだと思える。


*変えられること、変えられないこと
若し貴方の心を悩ますものがあるならば、それを貴方の心から放して、「神よ、この問題を貴方の無限の智慧のはからいにお任せ致します」と唱えて神(大生命)のはからいにまかせてしまうがよい。

(同上、pp.82-83)
 人生においては、自分の力で変えられることもあれば、変えられないこともある。
 後者については、「神様の御心のままに…」とする以外に仕方がないことであるし、それができれば心が乱れることもなく、しあわせになることはまちがいない。


*仏性の顕現
即ち仏性があらわれるのは、仏性そのものの力によるのであって、その仏性とは如来の本願そのものが宿っているのであるから、凡夫のはからいは無論駄目であるが、智者のはからいでも得られるものではないと云うのである。

(同上、p.102)
 異論もあるだろうが、自分の意志や努力では変えられないものので最たるものは信仰だと思う。信じようとしても信じられず、信じたくないと思っても信じないでいられないということは珍しいことではない。
 自分はこういう考え方なので、信仰にしろ、仏性の顕現にしろ、その類のことは神仏の力によるものであって、人のはからいではどうにもならないことのように思う。


*卒業
誰でも、自分の境遇や環境に自壊作用が来るものである。すなわちその境遇から得るところの魂の栄養が飽和状態になってしまい、いくらその環境にいても、その人にはもう魂の進歩がないと云うようになったとき、その人はその環境から脱皮することになるのである。
〈省略〉
それは内部神性の導きによって、自分の其の環境から卒業しつつあると思って喜ぶべきである。

(同上、p.87)
 この考え方は、最近よく活用しているものである。とある宗教に入会したのは、そこで学ぶべきことがあったからであり、やがて退会したのは、そこで学ぶべきことがなくなったからであり、近頃、かつて敬遠していた無神論や唯物論に興味関心が強まっているのは、高次の存在の導きなのだろうと。
 こう書くと、いかにも気まぐれで、節操がなく、ご都合主義のようであるが、「こうでなければならぬ」として物事に執着し、自縄自縛に陥り、身動きができなくなるよりは、ずっと快適である。


*耳に痛い言葉
 最後に、自分にとって耳に痛かった言葉を、自己の戒めとしてメモしておこう。
あなたの家族や周囲の者が不愉快な習慣や、癖をもっているからと言って、それを直せと云って忠告することが返って反抗心を唆って直すのに邪魔になる場合がある。そう云う場合には神にそれを委ねる方が好いのである。

(同上、p.250)
人を赦すことが出来ない人は、神を信じていると云っても実は信じていないのである。何故なら、神の造りたまえる世界に何か悪があると信じているからである。

(同上、p.256)
何事でも自己に与えられたる仕事が、誰かにとって益を与うるものであるならば決して拒むな。それが自己に不適当なる仕事であると思っても決して拒むな。神は決して貴方に不適当なる仕事を強制し給うことはないのである。

(同上、p.255)
 これらには思い当たる事が多々あるので、ひたすら反省である。