『魔女狩り』  森島恒雄著

*はじまり
 魔女狩りについては断片的な知識はあっても、その全体像はよく知らないので本書を読んでみた。
 まず本書によると、魔女狩りのはじまりは異端審問がきっかけだったそうだ。その流れはおよそ次のようなものだったらしい。
 教会は、当初は魔女を敵視することなく放置していた → その後、教会が大きな権力を持つようになると内部腐敗、堕落が進んだ → 一部の信徒が教会から離れ、独自の純粋な信仰を目指し始めた → 教会はこれを異端として弾圧、排除した → この異端審問、弾圧が一段落すると、次は魔女が標的になりはじめた云々。
 こうしてみると魔女狩りのきっかけは、教会の都合でしかないようで、犠牲者は本当に気の毒である。


*サイコパスの群れ?
 魔女狩りの中身については、巷で言われる通りというか、それ以上の酷さであったようだ。本書ではその加害者、被害者、双方の言葉が紹介されているが、それらは度々、頁を閉じて気持ちを落ち着かせなければならないほど読むに耐えないものばかりである。
 しかも魔女の財産没収が禁じられた期間には、魔女摘発がそれまでの四分の一、さらにはゼロにまでなった(pp.162-163)という資料さえあるという。このことからすれば、魔女狩りは狂信によって正常な判断能力を失ったための蛮行だというわけではなく、きっちりと損得勘定をした上での行動であったということが推定されるのだから酷いものだ。
 そのような計算づくで、何らの過失もない無実の人を拘束し、拷問によって無理矢理に罪を認めさせ、さらには無関係な人物の告発もさせた上で、生きたまま焼き殺すということを欧州中で何世代にも渡って続けたというのはどうにも理解し難い。


*希望
 このような話を知ると、「神も仏もあるものか!?」という気分にさせられるが、著者もそういう思いが出るだろうことは承知しているようで、本書には当時このような魔女裁判の不当性をうったえた人々が少数ながらも存在したことが記してある。それは、ヤン・ヴィーア、コルネリウス・ルース、フリードリヒ・フォン・シュペーという当時は殆ど無名だった人たちだそうだ。
 これはまさに奇跡の存在のように思える。キリスト教では何と言うか知らないが、仏教的には地獄に仏、泥中の花ともいうべきか? うまいたとえは思い浮かばないが、彼らの名はぜひとも記憶しておきたいものである。