*仰天
 随分前に、安藤昌益の著作を読み、釈迦や孔子を盗人呼ばわりしていることに仰天したのだったが、今回久しぶりに同著者の文章をつまみ読みして、またもや仰天してしまった。
 ある男が質問していうには、「今の世には世界中が嘘の話、虚偽の行いばかりで、真実の言葉や行為がないのはなぜでしょうか」
 わたしは答えた。「儒教の聖人が出て五倫五常などという私法を立て、嘘の話を教えて天道天下を盗んだからだ。釈迦が現れて方便とかいう嘘を教え、人々の上にあがってお布施を貪食したからだ。老子が出て谷神死せずなどと嘘の話をして人々に寄食したからだ。莊子が出て寓言偽言を語って盗み食いをしたからだ。医書を作る人間が現れて、根拠もないでたらめの治療をし、人殺しを業としながら貪食したからだ。聖徳太子が三法なるものを立てて嘘の話を世にひろめたからだ。みんながみんな嘘の話をもって人を教えたからだ。世の人間がすべて嘘を語り、虚偽を行うのはそこに始まるのだ。これらはみな文字・書物・学問のさせたことである。だから天下の災厄だとわたしはいうのだ。

(『自然真営道』〈講談社学術文庫〉安藤昌益著、野口武彦抄訳、講談社、2021年、pp.43-44)


*ロマン
 それにしても、江戸時代において、聖人とされる人々をよくもまあこれだけ悪し様に言うことができたものである。しかもその言葉を後世に残し伝えた熱心な弟子がいて、さらにはずっと時代を下ってから、それを再発見し、広く紹介する人物まで現れたというのだから、これにはある種のロマンさえ感じられる。まさに不思議な縁である。
 安藤昌益についてはいろいろと批判もあるようだけども、こういう再発見に至る過程や、その思想の独創性はやはり魅力的ではある。


*ものの見方、考え方は人それぞれ
 とはいえ、正直言って自分には安藤昌益の思想は酷い極論に感じられるし、よく分からぬものではある。
 ただそれでも思想宗教などというものは、しょせん真実というよりも、一つの世界解釈にすぎないのだから、それを信じない人にとってはただの妄想であり、嘘だということになるのだろうし、それならば思想家、宗教家というものは自ら耕すことはせずに、嘘をついて農民が汗水垂らして働き収穫した作物を巻き上げて食い散らかす盗人だという理屈も分からなくはないし、罵倒も屁理屈もこの段階までくると、なかなかに痛快でさえある。
 安藤昌益の著作を読むと、ものの見方、考え方というものは自由であり、人それぞれだということが本当によく分かる。