*信仰と幸福
小説を読んでいたら、信仰について書いてある箇所があったのでメモしておきたい。
あれはあの二年生の時だったろうか、サパリータよ、マルクス主義を学ぶだけでは充分ではなく、信じることが必要であると気がついたのは。もしかすると、信仰の欠如がお前を駄目にしてしまったのかも知れないな、サパリータ。(「ラ・カテドラルでの対話」『集英社版 世界の文学 30』バルガス=ジョサ著、桑名一博訳、集英社、1979年、p.100)
いちばん良くないのは疑問を持つことなんだ、アンブローシオ、そしていちばん素晴らしいのは目を閉ざし、神は存在するとか、あるいは存在しないとか言って、それを信じることができることなんだよ。(同上、p.100)
拳を握りしめ、歯を食いしばることだよ、アンブローシオ、アプラが解決策であり、宗教が解決策であり、共産主義が解決策であるとしてそれを信じることさ。そうすれば生活がひとりでに形を整え、自分を空虚だとは感じなくなるのだよ、アンブローシオ。(同上pp.100-101)
これは斜に構えた皮肉な表現ではあるが、その内容は一理あるように思う。確かに信仰には、それが純粋なものであるほど、人に充足感を与え、幸福にする効果はある。
個人的な経験ではあるし、自分で言うのもおかしいのではあるが、少なくとも、とある宗教を信じていた頃の自分はそんな風になっていたのだった。教祖に心酔し、信じ切り、少しの疑念も脳裏に浮かばない状態だった時には素晴らしい充足感があり、幸福だった。傍からはマインドコントロールされている哀れなカルト信者にしか見えなかったとしても、自分自身は心から幸福であり、その状態に満足していたのだった。
だから、信仰によって幸福になること、もしくは幸福になるには少しの疑問も持たないくらいに信じ切ることが必要であるということはよく理解できる。
*信仰による幸福感のやっかいさ
ところで自分は上のような経験から、信仰による幸福というものは、信仰することから生まれるのであって、信仰の対象とは必ずしも関係があるわけではないのではないかという気がしてならない。
信仰者は、自分は正しい宗教、正しい神を信じているから幸福感を得ていると思いがちだ。でも実際のところは、この種の幸福感は、信仰という心の働きから生まれているのであって、信仰の対象から生まれているわけではないと思うのだ。
信じる対象が、カルト宗教であれ、まともな宗教であれ、聖人と尊ばれる教祖であれ、イカサマ霊能者であれ、それが何であっても一応の幸福感は得られるのなら、その幸福感は対象に起因するのではなく、信仰という心の状態から生じるとしか思えないのである。
もっともこの幸福感がどれだけ続くかといえば、その長短に差はあるだろう。たとえば信じている対象がイカサマ霊能者であれば、疑問もなしに信じている期間は比較的短いものになるだろうから、信仰による幸福感が続く期間も短くなりがちだろう。ただそうはいっても、そういう場合であっても疑問が少しも浮かばないほどに信じ切っている間は相応の幸福感に包まれることには変わりはない。
世の中からカルトが無くならないのは、こういうところにも原因はあるのだろうし、そういう意味で信仰というものは本当にやっかいなものである。